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「名言との対話」11月8日。相馬愛蔵「機会というものは、いつも初めは、一つの危機として来るか、あるいは一つの負担として現れた」

長野県安曇野市出身。旧制松本中学を中退し東京専門学校で学び内村鑑三の教えを受ける。卒業後、札幌農学校養蚕学を学ぶ。帰郷し、1897年に仙台藩士の娘・星良(後の黒光)と結婚。26歳と21歳であった。

石川拓治『新宿井ベル・エポック:芸術と食を生んだ中村屋サロン』を読んだ。1901年、東京でパン屋を開業。1909年、新宿を本店とする。同郷の荻原守衛を中心に芸術家・文化人が集い、「中村屋サロン」と呼ばれる。1910年、荻原が中村屋の敷地内にアトリエを建築。柳宗悦も一時アトリエに住んでいる。1911年、荻原のアトリエを中村屋に移築し、「碌山館」と命名した。

中村屋はゆっくり成長していった。愛蔵は世の中の仕事というものには、改善できる部分が必ずあるという考えで、一つずつ改良を重ねていく。私の好物でもあったクリームパンは中村屋の1904年の発明である。中華饅頭、月餅、ロシヤチョコレート、朝鮮松の実入りカステラ、インド式カリーなど次々と新商品を発売し、事業を軌道に乗せている。「社会が公平なりと認める儲けしか頂戴しないで、真面目にやっていく店は、自然と繁盛するものである」

69歳時点で愛蔵は「中村屋の商売は人真似ではない。自己の独創をもって歩いてきている」と振り返っている。「店員並びに家族全体に生活の不安を与えてはならない」という信念で、従業員の待遇や、働く環境を考えていく。このことが、経営を安定させる道であり、商売を成功させる秘訣であり、経営の合理性の問題として語っている。時代を先取りした珍しい経営者だった。

愛蔵は商家の出ではない。「素人としての自分の創意工夫で、何処までも石橋を叩いて渡る流儀であり、また商人はかくあるべしと自ら信ずる所を実行したまでもものである」と述べている。

中村屋サロンには荻原碌山中村彝、中原悌二郎などが集まった。なかでも彫刻家の荻原守衛・碌山は二人にとって特別な人だった。特にアンビシャス・ガール黒光は弟のように接している。守衛の代表作「女」をみたとき、黒光は「これは私だ」と叫んだ。アメリカ、ヨーロッパで7年間の彫刻の修行をし、ロダンの弟子となった守衛は、亡くなるまでこの夫妻とともにあった。守衛の師匠はロダンであり、ロダンの師匠はミケランジェロである。

インド独立闘争の英雄、チャンドラ・ボースを遠山満から頼まれて官憲からかくまったのも、この中村屋である。ボースは食事を運んでいた愛蔵・黒光の娘と結婚している。ボースは二人を「トウサン」「カアサン」と呼んだ。中村屋は今でも、ボースの愛した「チキンカリー」のみで商売をしている。

臼井吉見の代表作に大河小説「安曇野」がある。この小説は安曇野の文化史を描いた。この小説に登場するのは、中村屋相馬愛蔵・黒光夫妻、荻原守衛、研成義塾の井口喜源冶、木下尚江の5人だ。この小説は足かけ10年、昭和48年に、5600枚で完結する。これは人と時代と事件と書物と思想とのの出会い、邂逅の物語だ。

相馬愛蔵は妻の黒光について「なにしろ火の玉のような女でね、こうと思い定めたら、どんなことがあったって、貫いてしまう」「干渉しなければ円満。世話を焼いても面倒な女ですから。世話を焼かないのが一番得策だ」と語っている。

2014年に紀伊国屋書店の向かい側に新しい新宿中村屋ビルが完成した。その真中の3階に新宿中村屋サロン美術館が開館している。新宿紀伊国屋に寄るときによく訪れる。2019年にはギリー倶楽部主宰のツアーで、開高健が好んだカレーを食べたことがある。銀座木村屋のアンパンと新宿中村屋のクリームパンの相互不可侵の話も面白かった。中村屋は創業者の志を引き継いでいると感じた。

愛蔵の商売に関する言葉にはいいものが多いが、私は「機会というものは、いつも初めは、一つの危機として来るか、あるいは一つの負担として現れた」という言葉に興味を持った。突如現れる危機や新たな負担は、飛躍の機会、チャンスであるという述懐だ。リスクをチャンスに変える人に成功がまっているということだろう。


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