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「名言との対話」8月28日。中村研一「生きている人体そのものを描くことをこころがけなくてはいけません」

中村 研一(なかむら けんいち、1895年明治28年5月14日 - 1967年(昭和42年)8月28日)は、日本の洋画家

福岡県宗像市出身。東京美術学校西洋画卒。フランスに留学。帝展、日展で活躍した。戦中は、海軍、陸軍の要請を受けて、戦争画を多く描いている。「コタバル」「マラヤの装い」「サイゴンのゆめ」「マレー沖海戦」「シンガポールへの道」「昭南」などの作品がある。戦後は、妻・富子をモデルとした婦人像や裸婦像を多く描いている。

1967年に中村研一は72歳で死去する。それから20年以上経った1989年、夫の作品を死後も守り続けてきた妻の富子が、それらを長く後世へ伝えたいと、自宅跡に「中村研一記念美術館」を独力で開館する。後に小金井市へ寄贈され、改修などを経て、2006年4月に「中村研一記念小金井市はけの森美術館」として開館した。その美術館を2009年に私も訪ねている。

「はけ」とは、古多摩川武蔵野台地を削ってできた国分寺崖線の通称で、この美術館は湧水に恵まれた豊かな緑に囲まれている。入館の前に西洋画家・中村研一の自宅の一部を使った「カフェ」で昼食を摂った。冬なのに木々や緑を美しく、春になったら素晴らしいだろうと想像する。お客は女性同士ばかりだった。中村は、空襲で東京・代々木のアトリエを焼失し、小金井に移り住み終生、この地で作品を描いた。

この画家については知識はなかった。東京美術学校卒業後、渡仏中にサロン・ドートインヌ会員となり、帰国後は帝展、文展日展の審査員を歴任し、1950年には日本芸術院会員になるなど、日本の近代洋画壇の中心的存在として活躍した画家である。繰り返し描いた婦人像、裸婦、人物、静物などを見た。裸婦の絵が多かったが、美しいといいうより、日常の姿をそのまま写し取ったという絵である。

「人間の顔に表情がなければつまらない、絵もそれと同じだ」という中村は生きている人体を写実しようとした。動く手、動きのある体、喜怒哀楽をみせる顔の表情、そういった生きている人体そのものを描くことに腐心した。写実、リアリズムなどを生涯追求した画家である。

郷里の宗像市には「中村研一・啄二 生家美術館」がある。2つ年下の啄二東京帝大経済学部をでたが、兄研一の影響で画家に転向する。柔らかな色彩と簡略な筆致を持ち味の画家である。この美術館のホームページには兄の晩年だろうが、兄弟仲良く肩を組んでいる写真が掲示されている。弟は兄の死後、20年以上の期間にわたり画家として活躍し、兄と同様に日展の審査員、芸術院会員になっている。弟は兄が歩いた道を歩んだのだ。ここにもドラマがありそうだ。

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