「名言との対話」9月30日。津田三蔵「大進撃ニテ大勝利、魁首西郷隆盛・桐野利秋ヲ獲斃シ大愉快之戦ニテ、残賊共斬首無算ナリ」
津田 三蔵(つだ さんぞう、安政元年12月29日(1855年2月15日) - 1891年(明治24年)9月30日)は、明治期の日本の陸軍軍人、警察官。大津事件の犯人。享年36。
1891年、ロシア皇太子のニコライの来日時に、滋賀県大津において沿道の警備にあたっていた巡査から切りつけられるという事件が起こって、日本中は騒然とした。大津事件である。その犯人が津田三蔵だ。
津田三蔵は、幕末から明治にかけての激動期に生きた一人の庶民である。15歳で東京鎮台に入営。以降、名古屋、新潟、金沢で勤務。1877年(明治10年)の西南戦争では、鹿児島県と宮崎県を転戦し、勲七等を授与されている。退役後は滋賀県警に勤務。そして1891年に沿道警備に抜擢されて、大津事件を起こす。裁判では無期徒刑の判決を受け、北海道にて獄死。
政府首脳の松方正義総理、青木周造外務大臣、元老の伊東博文らは、皇室への反逆罪の大逆罪で死刑にすべきだとの強い圧力を加えた。日露戦争が始まる前の時期であり、外交的に重大な事件であった。明治天皇は京都に移動したニコライ皇太子を見舞い、帰国する神戸で見送るなどして、ロシアの感情をなだめている。
大審院院長の児島惟謙はこの案件を地裁でなく大審院で裁くこととした。児島院長は罪刑法定主義をかざし、皇室に対する大逆罪には該当せず謀殺未遂罪での無期懲役を16日後に言い渡し、司法権の独立を護った。このことは近代国家としての日本を知らしめるものとなった。
政府の方は、青木周蔵外務大臣、西郷従道内務大臣、山田顕義司法大臣らはこぞって、ロシアに対する誠意を見せて、責任をとって辞職している。この大事件は後に吉村昭が『ニコライ遭難』(新潮社)を書いている。未曾有の国難にゆれる世相を活写した作品だ。この作品ではニコライ皇太子への官民挙げての歓待ぶり、そして犯人の津田三蔵の処分をめぐる政府と司法の軋轢、そして津田の不審な死について、他殺説、自殺強要説などがとびかったが、病死であるとの新事実もつきとめている。この大津事件は、ひとつ間違えば大国ロシアとの戦争につながりかねない大事件であった。
西南戦争終結時の津田の母宛ての書簡には「当月(九月)廿四日午前第四時ヨリ大進撃ニテ大勝利、魁首西郷隆盛・桐野利秋ヲ獲斃シ大愉快之戦ニテ、残賊共斬首無算ナリ」とあり、また「御話ノ如キハ近日帰国拝眉ノ期ト楽居候」と書いてあった。西南戦争に従軍した一兵士の津田三蔵の様子がわかる書簡である。ごく普通の一兵士の心情だろう。
自らが起こした大津事件について津田は「一太刀献上したまで」という意味の供述をしているだけで、ニコライを襲った犯意を津田自身は語っていないが、極東進出をもくろみ、新興の日本とは緊張状態にあったロシアへの反目であったと理解しておこう。
総理、総理経験者の暗殺事件と犯人。1909年、伊藤博文は安重根。1921年、原敬は中岡良一。1930年、浜口雄幸は佐郷屋留吉。1932年、5・15事件で犬養毅。1936年、2・26事件で斎藤実、高橋是清。戦後は減って、2020年の安倍晋三暗殺のみ、犯人は山上徹也。野党の党首では、1960年の浅沼稲次郎暗殺は山口二矢。暗殺未遂もある。大隈重信。岡田啓介。平沼騏一郎。鈴木貫太郎。岸信介。三木武夫。宮澤喜一。細川護熙。岸田文雄。
安倍晋三暗殺の裁判の行方には注目したい。