見出し画像

「名言との対話」9月27日。大槻文平「ハンブル・ライフ(つつましい生活)」

大槻 文平(おおつき ぶんぺい、1903年9月27日 - 1992年8月9日)は、宮城県生まれの日本実業家

宮城県立角田中学校東京帝国大学を出たあとに三菱入りし三菱鉱業社長、日経連(現・日本経団連)会長を歴任した。1990年、宮城県名誉県民になった。

大槻文平は、1928年に三菱財閥の中核企業の一つである三菱鉱業に入社し、地方の炭鉱のいくつかで労務対策を担当している。戦後は三菱鉱業の取締役労務部長から始まって経営に参画。1963年に社長に就任した。戦後のエネルギーが石炭から石油へと転換するという環境の中で、1969年には炭鉱の整理と大幅な人員削減を実施して「人切り文平」と呼ばれたが、従業員の再就職先斡旋に奔走し、ひとりの失業者も出さない穏健策で事態を収拾している。石炭に代わる新規事業への進出を図り、三菱鉱業セメント(現在の三菱マテリアル)を設立して社長に就任。斜陽産業を成長産業に切り替えた経営手腕が高く評価され、労務問題の専門家としてその総本山である日経連会長もながくつとめた。

若い頃、現場の労務担当として、多くの争議の収拾に奔走した大槻は、正しいことを一貫して主張し、譲らないことがいい結果をもたらすのであり、人間は信頼が大事だ、このような信念を持った。私も「労務」でビジネスマンのキャリアを出発したから、大槻の言葉はよくわかる。

・聖書に「叩けよ、さらば開かれん」という言葉があるが、あれ式にやってきたんですよ。何事にも一生懸命。

・大将がガックリしたり、しょげかえっていたら社員に響く。

大槻文平編著の『私の三菱昭和史』を読むと、戦後の財閥解体でばらばらになった三菱は、会長・社長の集まりである「三菱金曜会」をつくり、トップの交流をはかる体制をとった、このことが、グループの結束と難題に対処する原動力になった。また、丸の内三菱村と呼ばれた地域に主要企業が集まっていたことも、グループの交流に大いに役立っていることがわかる。「場」が大事なのだ。この本の中に私が入社した日本航空の本社が入った「東京ビル」もでてくる。三菱グループの課長クラスで構成された「三菱マーケッティング研究会」では、大槻は「内に向かってばかりいてはその発展はない。どんどん外延的に伸びていくことが必要だ」と強調している。

大槻文平は、日本人はぜいたくになり、何もかもが派手になりすぎているとして「物心ともにハンブル・ライフに徹すべきである」と語っている。「物」は、質素、飾り気がない、地味、倹約、である。「心」は、つつましい、慎ましい、控えめ、遠慮深い、である。

財界のトップになっても大槻文平は質素な暮らしを貫いた。「経営者の責務は働く者の生活に責任をもち、会社を立派に育て、それを次の後輩に渡していくことにある。」とする大槻文平は、このような信条からベア抑制論を展開し批判も受けたが成功もしている。その原点は炭鉱の労務係から出発したことにあると思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?