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「名言との対話」1月9日。田久保忠衛「わが師 わが友 わが後輩」

田久保 忠衛(たくぼ ただえ、1933年昭和8年2月4日 - 2024年令和6年)1月9日)は、日本外交評論家政治学者政治活動家。享年90。

千葉県出身。早稲田大学法学部卒業。1956年、時事通信社入社。q963年まで西ドイツハンブルク特派員。1970年、那覇支局長。1973メ年、ワシントン支局長。1974年、外信部次長。1980年、外信部長。1984年、論説委員

1984年、杏林大学社会科学部教授。1992年、学部長。1992年、慶應義塾大学で博士号を60歳で取得。2015年、日本会議会長。

田久保忠衛『激流世界を生きて わが師 わが友 わが後輩』(並木書房)を読了。

養子に入った父は水戸の出身であった。幕末の混乱に際し、武田耕雲斎藤田東湖などと活躍したが、水戸藩は同士討ちで自滅し、薩長両藩が維新の功業を担った。田久保はその流れの一族であることを強烈に意識した「水戸っぽ」である。

この本を読む中で感じたのは、人の縁である。進路の決定などに際して、すぐれた師のアドバイスに添って選択をしている。

葦新聞記者から経済評論家として活躍した土屋清、東大の河合栄次郎から始まる多くの「師」の導きによって、個の人物の進む道が決まっていく。田久保は核を持った武双中立論者であった。沖罠の那覇支局長時代は、琉球独立論などに遭遇している。

ワシントン支局長時代の階層では、イギリスは他を支配する経験や哲学を身につける前にアメrカは世界の指導国家に躍り出たため、助けていくという役割を意識してう¥いたという観察であった。日中関係では鄧小平が来日時に、尖閣問題は棚上げにしようという発言に日本は騙されたとの主張をしている。それは係争中であることを認めたことになるというのだ。

1994年に「ニクソンの対中政策」で法学博士の学位を取得する。若い地方部時代の「官庁速報」外信部時代の「世界週報」へ書き続けた文章が土台になっている。またある情報誌に毎月15枚の国際情報分析を32年間にわたり書き、そのための勉強も続けていたのである。この論文は産経新聞の第12回正論大賞を受賞している。

39歳で外信部長に就任した田久保は、40歳代から沖縄、東京、ワシントンの視点の相違の体験を踏まえた現実主義的思考の評論活動を本格的に開始する。当時は岩波派文化人が朝日新聞や岩波の「世界」で幅を利かせていた時代であり、田久保は「中央公論」、「正論」、「Voice」などを舞台で保守的論陣を張っていく。戦後の体制を是とした宮沢喜一河野洋平らに対し非とした中曽根康弘安倍晋三らの路線を支持していた。「普通の民主主義国」としてのスタンスの確立を主張している。

1994年に杏林大学に移った。定年までまだ5年ある50歳であった。1年後に退社するのを認める旨の文書に社長の判もらうことの大変さを書いている。恩師に相談するが、その一人から「社長になれるならやめてはいけない。その見込みがなけれは退社した方がいい」とのアドバイスであった。組織の中で存在感を保っている中で大学に移ることがどれだけ難しいかと痛感している。この点は私も経験しているが、やはり容易なことではない。

この勉強家は大学に移ってからも、仕事と勉強に余念がない。手を抜かない人だった。だから、教務部長を経て次の学部長に推されている。学部名を「総合政策学部」に変え、大学院国際協力研究科を創設している。そして、この間に田久保は5回の癌の手術を経験しているのだ。

この2007年に刊行したこの本の最後には、「随分と飛ばして走ってきたと自分でも思うので、神様が生命を与えてくださる限り、あとは自然体で勉強に励もうと思っている」と結んでいる。年譜から数えると田久保忠衛は70代半ばである。どの場所においても、深く学ぶ姿勢を持って、課題の解決に邁進する姿勢は揺るがない。2025年には日本会議の会長となったり、雑誌「致知」でもよく見かけたように、引き続き疾走したのだろう。その志そのままに90歳まで生き抜いたのである。

この本の題名のサブに「師」「友」「後輩」という言葉を連ねているが、人は人の縁に導かれて生きていくのだという感触を改めてもった。私も「仰ぎ見る師匠」、「切磋する敵、琢磨す友」を題材にわが生涯を辿ってみる機会をもちたいものだ。

「水戸」に精神的影響を受けていると本人が言うように、田久保忠衛の生涯をながめてみると、水戸の古武士のように、理屈っぽい、骨っぽいという性格そのままであったように感じる。田久部忠衛は「水戸っぽ」だったと総括しておこう。



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