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「名言との対話」10月1日。河井継之助「人というものが世にあるうち、もっとも大切なのは出処進退の四文字でございます。そのうち進むと出づるは人の助けを要さねばならないが、処ると退くは、人の力をかりずともよく、自分でできるもの」

河井 継之助(かわい つぎのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日1827年1月27日) - 慶応4年8月16日1868年10月1日))は、江戸時代末期(幕末)の武士

河井継之助は、江戸の大儒の佐藤一斎の塾に通っている。この塾では佐久間象山山田方谷が二傑だった。2014年に岡山の山田方谷記念館を訪問したときに、方谷の塾でも半年学んでいることがわかった。

2007年に新潟県長岡市河井継之助記念館を訪問する機会を得た。この記念館がこの長岡に出来たことは知らなかったが、山本五十六記念館の人が教えてくれた。終焉の地・福島県只見町にあった記念館に加えて、生誕の地にもようやく記念館ができたのだ。 司馬遼太郎の長編歴史小説『峠』(上中下)の主人公として馴染みがある快男児である。

河井継之助越後長岡藩7万4千石の家老となって幕末から維新のこの小藩の運命を握り、武装中立を宣言するが志を得ず、最後は官軍を大いに苦しめる戦いを指揮した。継之助自身も銃弾で膝を撃ち抜かれ重傷。城を明け渡し会津目指し敗走の途上で傷が悪化し命を落とす。その際、「これからは武士に代わって商人の世になる。おみしゃん(おまえさん)は商人になりゃい(なりなさい)」と部下に言い遺したそうだ。

記念館には河井継之助の断行した禄高改正(平準化)の説明があった。40500石の扶持を25000石に減じて財政を立て直すことにし、最高で2000石、最低で100石だったものを、最高で500石、最低で100石とした。「百人の禄を減じて、千人の禄を増し、人気(じんき)を調和して力を強くする」とい言われた改革である。以下、河井の言葉。

「天下になくては成らぬ人になるか、有ってはならぬ人となれ」

「不遇を憤るような、その程度の未熟さでは、とうてい人物とはいえぬ」

「一忍を以って百勇を支う可く 一静を以って百動を制す可し」

「八十里こしぬけ武士の越す峠」(辞世の句)

山本五十六記念館には「私は河井継之助小千谷の談判に赴き、天下の和平を談笑のうちに決しようとした、あの精神をもって使命に従う。軍縮は世界平和、日本の安全のため、必ず成立させねばならぬ」という山本五十六の言葉があった。同郷の山本五十六にも影響を与えていることを知った。

河井継之助は「人というものが世にあるうち、もっとも大切なのは出処進退の四字でございます。そのうち進むと出づるは人の助けを要さねばならないが、処ると退くは、人の力をかりずともよく、自分でできるもの」と「出処進退」の心構えを語っている。

どういう形でリーダーに選ばれるか、どういう形で退くか、これがあらゆる分野のリーダーの心すべき点である。出るときは人に推され、退くときは自ら決めよという出処進退の考え方があるように、リーダーの品格は、出処進退にあらわれる。「出」「進」「退」はわかるが、長い間「処」がよくわからなかった。それは、落ち着いてその地位にとどまるという意味だった。

どういう形でリーダーに選ばれるか、どういう形で退くか、これがあらゆる分野のリーダーの心すべき点であると思う。出るときは人に推され、退くときは自ら決めよという出処進退の考え方があるように、リーダーの品格は、出処進退に顕れると思う。

出処進退では、特に退くときが難しい。タイミング如何によってリーダーの評価が定まるのだが、早すぎても遅すぎても批判される。ちょうどいいタイミングというのは後になってわかるが、渦中にあるときの判断はなかなかの難題である。一般的にいえることは遅めの退陣は失敗という評価が多いことだ。少し早いか、という時期が退くときの目安になる。早めの引退は失敗が少ないから、リーダーとなったら少し早めの引退を心がけるのがいいと思う。

ある組織のリーダーを継続するか、退くかという状況に置かれたことがある。このときに去来したのが河井継之助のこの言葉だった。自分一人で決断し、驚く仲間を説得し退いたことを思い出す。私もこの言葉を意識して人生に処してきたつもりだから、河井継之助の「出処進退」の哲学には共感する。

峠(上中下) 

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