「名言との対話」 4月23日。島森路子「文章の修業というより、そこに何を見、何を書くのかの目を鍛えることの修業だった」
島森 路子(しまもり みちこ、1947年1月17日 - 2013年4月23日)は、日本の広告評論家・エッセイスト・編集者。
立教大学卒。講談社で児童書の編集をしたのち、天野祐吉のマドラ・プロダクションに入る。1979年、月刊誌『広告批評』の創刊に副編集長として参加。糸井重里、川崎徹、仲畑貴志などコピーライターたちの登場により「広告がブームになった」1980年代を、広告ジャーナリストの観点から見つめ応援した。1988年より天野祐吉の後を受けて2009年の休刊にいたるまで編集長として活躍した。
この人の名前と顔は様々な媒体で見かけたが、よく知らなかった。今回、天野が表紙を装飾した『夜中の赤鉛筆』(新書館)というエッセイ集を読んでみた。
師匠は14歳年上の名コラムニスト・天野祐吉である。広告に対する「シビアな目線」を学んだ。また同時代を「言葉」の問題として生きている同志として、橋本治、リービ英雄、村上春樹、高橋源一郎を挙げている。
「昭和のキャッチフレーズ」という項では、天野の推す戦前・戦中の「欲しがりません勝つまでは」と戦後の西武百貨店の「おいしい生活」を挙げている。
テレビのコメンテーターについては、視聴者代表と野次馬が本来の立場であり、乱反射と相対化が役割だとして、専門家や権威を批判しない人たちを揶揄している。
「わたし」というタイトルの第5章のエッセイが面白い。
「面白がりイムズ」を標榜している。「世の中、なにがつまらないかって、つまらいことをつまらないと思ってやることほど、つまらないことはない」。
「一日24時間を、仕事も遊びもパブリックもプライベートも臨機応変に織りまぜて、自分のものとして好きなように使っているのだ」
「シゴトやタチバを利用乱用して、自分の好きな人と好きなことをして遊ぶのが、いまの私流、「広告批評」流である」
こういった島森編集長の言葉を読むと、30代後半から40代以降、同世代の各界の優れたビジネスマンたちとよく遊んだことを思い出す。彼らは、運輸、メーカー、洋酒、インフラ、新聞、出版、放送などの分野の俊才たちだった。みな公私混同すれすれの「公私混合」で生きる人たちだった。臨機応変、立場を乱用して、毎日を面白がっていた。仕事で乗っているときはそういう感覚なのだ。
部下だった河尻亨一は、「 頑固でしなやか。潔癖でユルい。姉ぽくもあり、母ぽくもあり、学級委員長ぽくもあり、いろんなキャラがコロコロ入れ替わるようで全体として矛盾がない」と追憶している。そして「いまとはどんな時代なのか?」が口ぐせだったと語っている。
島森路子は「私の文章修業は、文章の修業というより、そこに何を見、何を書くのかの目を鍛えることの修業だった」と20代の修業時代を総括している。文章を書くということは、何を見るかが前提だ。見る、観る、発見する、書くというサイクルで文章がしだいに書けるようになっていくということだ。それを「目を鍛える」というフレーズに凝縮しているのはさすがである。短歌や俳句でいう「写生」の精神と同じだ。それは、時代や社会や人間をみつめる人たちへの共通のアドバイスである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?