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「名言との対話」10月10日。愛知揆一「百術は一誠にしかず」

愛知 揆一(あいち きいち、1907年10月10日 - 1973年11月23日)は、日本大蔵官僚政治家

参議院議員から衆議院議員に転じ、内閣官房長官外務大臣大蔵大臣などを歴任した。

東京都千代田区出身。父が東北帝大教授に就任したため仙台に転居。旧制二高から東京帝大法学部政治学科を卒業。卒業後は大蔵省に入り、官房長、銀行局長として活躍。

1950年、第2回参議院選挙で自由党から初当選。吉田茂首相の側近13人衆となり、吉田茂内閣の通産大臣兼経済安定審議長長官。1955年、衆議院選挙で当選、保守合同となった自由民主党に参加。岸信介政権で官房長官法務大臣自治庁長官、。池田政権で文部大臣兼科学技術庁長官。佐藤派五奉行となり、佐藤政権で外務大臣。田中内閣で大蔵大臣となり、1973年の変動相場制、オイルショックの狂乱物価に対応し、激務の中、風邪をこじらせ、急逝する。後任は福田赳夫である。66歳の若さだった。愛知揆一の最後の言葉は、慶応病院に運ばれる途中で、「俺は、俺は、こんなことではしなないぞっ」だった。

国会における追悼演説は、宮城の同一選挙区の社会党佐々木更三であった。当時の議長は前尾繁三郎。演説を読んでみた。数々の重責を担い期待に応えたことなどを高く評価した上で、次のようなことも語っている。

保守の愛知、革新の佐々木。政敵として論戦。好敵手。「自信をもって大いに立ち向かってまいりたい」とインフレ収束に向かう言葉が国会での最後の言葉だった。「百術は一誠にしかず」と揮ごうしていた。、、、。以上、名演説だった。

現役の国会議員が亡くなると、国会で追悼演説が行われる。慣習がある。そのとき、演説者は同選挙区や近隣選挙区の反対党から出すケースが多い。党首経験者クラスとなると対立党の党首、党首経験者が行うことが慣例となっている。

1960年の浅沼稲次郎には池田勇人、1975年の佐藤栄作には成田知巳、1979年の成田知巳には大平正芳、1980年の大平正芳には飛鳥田一雄、2000年の小渕恵三には村山富市が追悼演説にあたっている。

近々行われる安倍首相の追悼演説は、民主党で総理になった立憲民主党野田佳彦最高顧問が行うことになったようだ。どのような演説になるだろうか。因みに、浅沼稲次郎追悼の池田勇人は、この追悼演説で名をあげている。

愛知揆一ほど、要職大臣をつとめ続けた政治家も珍しい。何を任されても立派な業績をあげ続けたからだろう。首相もつとまっただろうという評価もある。愛知揆一の座右の銘は「百術は一誠にしかず」であった。そのとおりの人生を歩んだのだろう。この言葉を信条とする政治家は多い。魑魅魍魎の住む政界でも、愛知揆一以外にも、保利茂鈴木俊一小沢一郎などもこの言葉をあげていいた。私心をもたず誠実に問題解決にあたれという戒めである。何事かをなそうとする人は、この言葉を深く心にとめたい。


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