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「名言との対話」 9月12日。徳光寿雄「パパは何でも知っている」

徳光 寿雄(德光 壽雄、とくみつ としお、1910年(明治43年)10月11日 – 2014年(平成26年)9月12日)は、日本の映画監督、実業家。103歳まで生きたセンテナリアン。

1932年、大倉高等商業学校(東京経済大学の前身)卒業。1932年、河合映画製作社(1933年、大都映画に改組)に入社。宣伝部を経て、助監督、監督を務める。新興キネマに移籍し、太秦撮影所、東京大泉撮影所で監督。毎日新聞に移籍し、映画部でニュース映画を担当。日本映画社のニュース映画部に勤務する。

戦後の1953年、日本テレビ放送網の開局社員として入社し、初代映画部長となる。外国映画を日本語吹替でテレビ放送することを発案した。『ロビンフッドの冒険』『名犬リンチンチン(英語版)』『パパは何でも知っている』などを担当した。東京12チャンネル(現:テレビ東京)に出向、同チャンネルの経営再建を手がけた。

徳光寿雄は103歳で亡くなったセンテナリアンだ。長男の和夫は1963年、日本テレビ放送網に入社し、アナウンサーとして勤務し、1989年よりフリーアナウンサーとして活躍している有名人だ。「とくさん」に愛称で呼ばれている。今でも『路線バスで寄り道の旅』(テレビ朝日系)などに出演中の姿はよくみかける。父が亡くなったときに、和夫は「大往生でした」と語っている。次男の息子に女装家のミッツ・マングローブがいる。

寿雄の日本テレビ定年対退職後の、50年近くの詳細はわからないが、韓国併合の1910年から、ソチ五輪の2014年までの長い長い生涯をどう過ごしたのだろうか。

この人の言葉を探したが、なかなか見つからなかった。私も子どもの頃にテレビで夢中になった外国映画の番組を輸入した人だったことを知った。「ロビンフッドの冒険」「名犬リンチンチン「パパは何でも知っている」などのタイトルと、戦後憧れたアメリカの豊かさなどに驚いた映像は今でも思い出すことができる。アメリカは日本統治の一環として版権を無料で提供したということも聞くが、こういったテレビ映像の威力はすさまじく、戦後日本人が持った豊かな民主主義国家というアメリカ観と親米感を形成したのは間違いない。

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