「名言との対話」3月7日。三島弥太郎「ああ、お父様は一生この方を忘れないでいらっしゃったのだ」
三島 彌太郎(みしま やたろう、慶応3年4月1日(1867年5月4日) - 1919年(大正8年)3月7日)は、日本の銀行家。子爵。
鹿児島市出身。7歳で中村正直の私塾・同人社分校で普通学と英語を学ぶ。1883年、東京帝大のコックスに英語を学ぶ。18歳で官費留学で渡米マサチューセッツ農科大学で農政学を学ぶ。ハーバード大学夏期学校で化学を学ぶ。コーネル大学大学院で害中学を学び修士号を。1891年、欧州各国を巡遊して帰国。
1893年大山信子と結婚。1895年結核をわずらった信子と離婚。四条加根子と再婚。1897年、第2回伯子男爵議員選挙で貴族院議員に当選。1898磐越西線社長。1911年、横浜正金銀行頭取。1913年、日本銀行総裁。1918年日銀総裁に再任。1919年に現職のまま逝去。
以上にみるように学歴と経歴はまことに立派である。アメリカでの激しい勉強のため神経に神経痛をわずらったり、日銀総裁として難局にあたる激務のために亡くなったりと、刻苦勉励型の性格であっただろうと推察する。
この人の名が世間で有名になったのは、仕事以外のためであった。徳富蘆花が書いたベストセラー小説『不如帰』の登場人物の川島武夫のモデルになったことから世間の目にさらされた。この小説の主人公の浪子は継母と折り合いが悪かった。川島男爵と結婚したが、姑のお慶は浪子に辛く当たる。浪子は肺をおかされ逗子海岸で療養する。お慶は離婚を迫るが武夫は拒否するが。お慶は武夫が海軍での勤務で留守の間に浪子の実家に離縁を申しでて実家に引きとられる。武夫は怒るが日清戦争で出陣し負傷。二人は互いに愛し合いながらすれ違っていく。浪子は「ああ辛い!。辛い!。、、、もう婦人(おんな)なんぞに、、、生まれはしませんよ」と言いながら死んでいく。戦争から戻った武夫は浪子の墓の前で泣き崩れる。そこへ浪子の父が現れ、2人は手を取り合って泣く。
浪子のモデルとは大山信子でその父は大山巌。浪子の継母は大山捨松。武夫は三島弥太郎で、浪子の姑のお慶は三島和歌子がモデルである。いずれも有名人であり、この小説を読んだり、芝居をみた当時の人々はこういった関係をよくしっていた。
この小説では継母の大山捨松と姑の三島和歌子が主人公の浪子をいじめる役柄になっていて、2人はこの小説を信じた世間から冷たい目で見られることになった。
蘆花が「第百版不如帰の巻首に」を書いている。それを読むと、不如帰は本来は「ふじょき」と読むらしい。このふりがなをつけていた。蘆花が逗子で家を借りて住んでいた時に、懇意になった隣の部屋の婦人から、悲酸の事実談を聞かされた。浪子、武夫、川島家などが出て来る実話であった。蘆花は「話の骨に勝手な肉をつけて一編の小説を起草して国民新聞に掲げ、後一冊として民友社から出版したのがこのこの小説不如帰である」。この肉の部分では読者の涙を誘うために悪役が必要であり、大山捨松と三島和歌子がその役にさせられた。本人たちには覚えのないことであった。迷惑な風被害をこうむったのである。
「ああ辛い!。辛い!。、、、もう婦人(おんな)なんぞに、、、生まれはしませんよ」という名セリフは人口に膾炙した。また夫の出征を見送る際にふったハンカチは別れの小道具になったという。
さて、その後に三島弥太郎の長男・通陽の妻の純(すみ)は、通陽が存命中に、父・武夫が常に携帯していた小さな皮の帳面に信子の若い頃の写真をみつけた。「ああお父様は一生この方を忘れないでいらっしゃったのだ」と思ったと述懐している。