「名言との対話」8月4日、後藤象二郎「大政奉還が実行されなければ、私も生きて二条城から帰る意志はない」
後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天保9年3月19日〉 - 1897年〈明治30年〉8月4日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家、実業家。
2022年に、京都の後藤象二郎旧寓居ギャラリーを訪問した。「ホテルリソル京都河原町三条」に入り口にある。土佐藩邸に近い醬油省「壺屋」のあった場所は、龍馬が寄寓していた材木商「酢屋」と近い。
ホテルやマンションの場所が歴史的に意味がある場合に、記念室などを設けることがある。九段下のマンションの入り口に設置している瀧澤馬琴が硯を洗った井戸の跡などもその例だ。東京や京都などは、そういうことを大事にすると観光資源が増えると思う。
後藤象二郎は1838年生まれで坂本龍馬より2歳年下であった。土佐勤王党に殺害された吉田東洋は叔父である。東洋の推挙で山内容堂に認められ、後藤は参政、そして家老にまで昇進している。
1867年に後藤と龍馬の2人は会談を持った。上士代表としての後藤と下士の代表としての龍馬は仇敵同士であったが、意気投合する。龍馬の「戦中八策」に感銘を受けた後藤は大政奉還に傾いていく。大政奉還は山内容堂と後藤象二郎の事業として成就したが、龍馬は「後藤は実に同志にして人のたましいも土佐国中で外にあるまいと存じ候」とし、「我は、彼の才を利用して、吾党の志望を達せん」と手紙に書いている。
維新後は政府に仕えるが、明治6年に征韓論に組し敗れて下野する。そして幼馴染の自由民権運動の板垣退助を支援する。自由党では副党首格だった。その後、復帰した政府においては、黒田内閣の逓信大臣、伊藤内閣の農商務大臣も務めている。
後藤が亡くなった時、板垣退助は弔辞で「縦横機略の才を懐き、寛大にして広く人を容れ、豪胆にして能く能く事を致し、少しも退出の風なく、活発進取の気象に富み、磊磊落落たる英雄の風采がありました」と述べている。少年期は境遇の似ていた一つ下の後藤象二郎との深く交わっている。二人は竹馬の友であった。土佐藩の上士の棟梁格であった板垣は、下士勢力ともはかって藩の兵制を改革し近代式軍隊をつくり上げ、戊辰戦争で活躍した。
後藤象二郎に対する人物評を拾ってみた。「才物」「大ぼら吹き」「豪傑」「豪放闊達」「雄大」「愉快」「気宇が大きい」「太っ腹」「磊落」「大胆」などの人物評があるから、その人柄がみえるようだ。
アーネスト・サトウは「イギリスの議会制度は、京都における侍階級の指導者連中、ことに後藤象二郎などが大いに興味を持った問題であった。日本の新政府の基礎を代議制度の上におくことが、彼らの希望だったからである」と書いている。
渡辺省亭という画家の企画展をみたことがある。四季折々に床の間を飾る省亭の花鳥画は後藤象二郎など当時の大物が愛した。海外では横山大観や竹内栖鳳以上に馴染みがある近代日本画家だった。
後藤象二郎は大隈重信と同様に過去を語ることはなかった。「大政奉還が実行されなければ、私も生きて二条城から帰る意志はない」と決死の覚悟をもって大政奉還という偉業を成功させたが、そのことに触れるのを避けている。未来のみをみつめていたのであろう。