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平野啓一郎『私とは何か--個人から分人へ』(講談社現代新書) ISBN-13 : 978-4062881722
この本の主張は、人間の単位を考え直すことだ。
個人という意味で使っているindividualは、これ以上分けられないという意味であるが、本当にそうか。そして本当の自分なるものがあるという考え方が間違いのもとではないか、というのがこの本の問題意識である。平野は、人間は分けることが可能な存在であり、人間は対人関係ごとに複数の顔を持っており、一人の人間は複数の分人のネットワークによって成り立っているという。そして個性とは、その複数の分人の構成比率によって決定されるというのだ。以下、ポイントをピックアップ。
誰とどうつきあっているかで、分人の構成比率は変化する。その総体が個性となる。
自己の変化とは、分人の構成比率を変えるしかない。それはつきあう人間を変えることだ。
自分という人間は、複数の分人の同時進行のプロジェクトと考えよう。
自分探しの旅とは、欠落している新しい分人を手に入れて、新たな個性を創出しようとする行為だ。
私たちは、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っている。
自分が気に入る分人を少しづつ増やしていくことができれば、自分に肯定的になっていける。
片思いとは、お互いの分人の構成比率が、非対称な状態である。それが許せずに自分向けの分人を大きくしようと、異常な行動にでるのがストーカーだ。
分人主義は、人間をここに分断させず、単位を小さくすることによって、きめ細かなつながりを発見させる思想である。
帰属するコミュニティが一つであることがアイデンティティであったが、今後重要なのは複数の分人を使って複数のコミュニティに参加することだ。むしろ矛盾する複数のミュイティに参加することが大事なのだ。
個人を複数の分人のネットワークとしてとらえると新しい視界が開けてくる気もする。分けるというより複数のレイヤー(層)によって重層的に個人が形成されていると考えることもできる。ヨコに分けられているのではなく、タテにつながっているととらえるのがいいのではないだろうか。