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「名言との対話」11月10日。汪兆銘「我は苦難の道を行く」

汪 兆銘(おう ちょうめい、ワン・ジャオミン、1883年5月4日 - 1944年11月10日)は、中華民国政治家。

中国広東省出身。科挙の合格を経て法政大学に留学中、「民族・民権・民生」の三民主義を掲げる孫文の主導する中国革命同盟会に入り、機関紙『民報』の記者として立憲君主制を主張する梁啓超と対立。優秀な成績で卒業しそのまま日本にとどまった。

1910年、清朝の摂政王暗殺未遂により、死刑の宣告を受けたが、1911年の辛亥革命大赦孫文を臨時大統領とする中華民国が成立。清朝崩壊によって袁世凱が臨時大統領に就任。

1912年からフランスに移り、中国と往来をしている。1916年に帰国し広東の孫文大元帥を、「官職に就かない」との方針の汪兆銘は、最高顧問として助けている。「修養の時代」を終えて、1921年から表舞台に立ち、広東国民政府にあって孫文を第一の側近として助け、「連ソ容共」を内容とする1924年の国民党改組に参加した。孫文は思想武装した軍をつくるため、蒋介石を登用する。

孫文1924年に神戸で「大亜細亜主義」と題する講演を行った。西洋覇道の番犬か、東洋王道の牙城かと日本に迫った有名な講演である。汪兆銘は「革命まだ成らず。同志たちよ努力すべし」という遺言を記している。

孫文の死後は、廖仲愷らとともに国民党左派の中心となって蒋介石 と対立と妥協を重ねていく。1927年の「国共合作」政権である武漢政府にも参加した。国共内戦世界恐慌のなかで蒋介石と対立する。満州事変など日本の進出に無抵抗政策の張学良を排除し、汪と蒋は、台頭しつつあった共産党との戦いで共同戦線を張ることとし、対日融和路線をとった。1937年からの日中戦争にあたっては「反共親日」であったが、その後「徹底抗日」に変化している。

1938年、国民党副総裁になったが、日中戦争激化のなかで、重慶 から脱出。ハノイで和平建議を発表し、1940年に南京国民政府を樹立し主席に就任した。1941年からの大東亜戦争に当たり、蒋介石重慶政府は連合国側、汪兆銘南京政府は枢軸国側につく。1943年の大東亜会議に南京政府の行政院長として出席している。1944年に名古屋で病死。享年61。

以上のような激動の時代にあって、汪兆銘は常に渦の中心にあった。蒋介石との対立と協調の連続、毛沢東率いる共産党との交渉、重光葵や松本重治との交流、日本国内での天皇や近衛首相と接触など、その動きは目まぐるしい。

結局、中国は共産党政権が成立し、汪兆銘は日本に協力した傀儡政権を主導した「漢奸」とされているが、「もし」時代が味方したら、英雄として歴史に名が残ったであろう。

「革命の決心は、誰もが持っている惻隠の情、いうならば困っている人を見捨てておけない心情からはじまるものだ」

「革命を志す者は、自己の身体を薪あるいは釜として4億の民に満ち足りた思いを味あわせることをめざすべき」

「いま、父が計画していることが成功すれば、中国の国民に幸せが訪れる。しかし失敗すれば、家族全体が末代までも人々から批判されるかもしれない」

汪兆銘の言葉の中では、終生のライバルであった蒋介石にあてた、「君は安易な道を行け、我は苦難の道を行く」を採りたい。孫文汪兆銘蒋介石毛沢東ら、清朝末期から革命の混乱期、混沌期を生きた人々の苦難は想像に余りある。それぞれが苦難の道を歩んだという意識なのだろう。結果から評価するだけでは、人物の真価はわからない。評判の悪い汪兆銘の生涯を概観して、改めてそう思った。

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