「名言との対話」9月4日。白瀬矗「酒を飲まない。煙草を喫わない。茶を飲まない。湯を飲まない。寒中でも火にあたらない」
白瀬 矗(しらせ のぶ、文久元年6月13日(1861年7月20日) - 昭和21年(1946年)9月4日)は、日本の陸軍軍人、南極探検家。
11歳の時に寺子屋の師匠・佐々木節斎から「お前はここではガキ大将で威張っているが、世界を見渡せば勇気のある立派な人たちが沢山いる」。そういってコロンブスやマゼラン、それに北極海探検で有名なジョン・フランクリンの話を聞かせる。そして南極探検を志した白瀬に5つの戒めを言い渡す。「酒を飲まない。煙草を喫わない。茶を飲まない。湯を飲まない。寒中でも火にあたらない」。白瀬はこの戒めを生涯にわたって守った。
「人間は目的に向かって剛直に、まっすぐ進むべきものである。」
「自分は、人が鍬や鎌で雑草を切り揃えた跡を、何の苦労もなく坦々として行くのは大嫌いだ。蛇が出ようが、熊が出ようが、前人未到の堺を跋渉したい」
「南極探検」は、ノルウェーのアムンゼン隊、イギリスのスコット隊は国家的な支援のもとに決行されたのだが、白瀬隊は後援会長・大隈重信等の協力のもと国民の義援金で支えられていて、船も装備も貧弱だった。このため遅れをとった。
1990年開館の仁賀保市金浦町の白瀬南極探検隊記念館は、建築家の黒川紀章の作品である。一度訪問したことがある。中央の円形の池に配置された円錐形の形態と、それをとり囲むように配置されたドーナツ形の形態によって構成されていた。
2000年の朝日新聞の「この1000年「日本の大冒険・探検家」読者人気投票」という企画では、10位・川口えん海、9位:猿岩石、8位:白瀬のぶ、7位:間宮林蔵、6位:ジョン万次郎、5位:堀江謙一、4位:最上徳内、3位:毛利衛、2位:伊能忠敬、1位は植村直己だった。
南極探検後、帰国した白瀬は4万円(現在の1.5ー2億円)の負債を一人で背負うことになる。この返済のために全国行脚の講演を行って全額を返済するのだが、極度の貧乏生活を送っている。白瀬の「恵まれぬ 我が日の本の探検家 パンを求めて処々転々」とは悲しい歌である。辞世の歌は「我なくも 必ず捜せ南極の 地中の宝世にいだすまで」であった。
1955年にベルギーで開かれた国際地球観測年に関わる南極会議で、当初は反対が多かったが、日本は白瀬隊の実績を述べて南極基地を設けて観測に参加することができたのである。「何とでも言え、世間の毀誉褒貶というものは、雲か霧のようなものだ。山が泰然としていれば、雲や霧が動いたとて、何ほどのことがあろう。やがて晴れる時が来るに違いない」と語っていたように、白瀬の志は死後に実ったのだ。