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「名言との対話」9月20日。加藤秀俊「時間的な持続力をもった人間が例外的な偉人として珍重される。、、もしも何十年かの人生を通じて、なにごとかについての持続力をもつことができるなら、それは、とりもなおさず、「生きがい」のある人生であった、ということである。」

加藤 秀俊(かとう ひでとし、1930年昭和5年)4月26日 - 2023年令和5年)9月20日)は、日本の社会学者。享年93。東京都出身。

1970年の大阪万博のプロデューサーだった小松左京の述懐「大阪万博奮闘記」を読んだことがある。日本万国博覧会に尽力し、林雄二郎(51歳、梅棹忠夫(47歳)、川添登(41歳)加藤秀俊(37歳)、小松左京(36歳)らは1968年に日本未来学会を創設した。親しかった梅棹忠夫について加藤秀俊は「梅棹さんは先々まで見通して手を打つ人だった。洞察力があるといえば聞こえはいいが、要するにたいへんな「悪党」であった」と述べている。

国立民族学博物館をつくることにつながる彼らの陰謀を重ねる様子が浮かんでくる。梅棹忠夫について、小松は眼光紙背に徹する人だったという。万博側との関係は「婚約はしないが交際はする」という名言を吐いたそうだ。この日本未来学会は今も存在して、私は理事を引き受けている。

1979年刊行の早川和男『住宅貧乏物語』(岩波新書)には、加藤秀俊の「通勤電車、奴隷船」説がある。満員電車が事故で30分以上動かない時、気分が悪い人や、失神する人がでる。古代ヨーロッパの奴隷船が目的地に着くまでに4人に1人は死んでいた。それに近い環境なのだ。通勤電車で毎日もまれていた私は、怒りとともに、その説に共感した覚えがある。

1982年に『私の書斎活用術』(「講談社)という本をつくった時に私は取材している。約2年かけて、17人の著名人の書斎を訪ねた。そのときはそういう先生たちと1日何時間も一緒になれるし、それはもう楽しくてしかたがなかった。社会学者として知られる加藤秀俊は整理の達人で、インターネット上で「加藤秀俊データベース」を公開している人だけあって、当時から自分が今までやってきた仕事を全部ファイリングしていた。当時は52歳。「 事務所はルーティンワーク、書斎は知的生産の場」「常に一号機を買う」「1時間4枚、一日5時間が限度」「書斎は自分自身。自分の肉体と神と鉛筆さえあればよい」「司馬遼太郎梅棹忠夫の文章を参考」「旅行中のできごとはテープに吹き込んで後で文章化」「一番優れた情報源は友人」、、。

「知的生産の技術」の先達として大いに刺激を受けた先生だ。あらゆることを試した人の結論は、自分の肉体と「紙と鉛筆」だったのには納得する。健筆を続けられることを祈る。 (以上は『私の書斎活用術』に私が書いた感想)

加藤秀俊著作集』(全12巻、中央公論社, 1980-1981年)が編まれている。自分が描いた文章はすべて管理していたその結果がこれだろう。私たちが取材した1982年の時点ですでに完成していたのには今さらながら驚いた。1巻「探求の技法」2巻「人間関係」3巻「世相史」4巻「大衆文化論」5巻「時間と空間」6巻「世代と教育」7巻「生活研究」8巻「比較文化論」9巻「情報と文明」10巻「人物と人生」11巻「旅行と紀行」12巻「アメリカ研究」。

加藤秀俊著作集 10 人物と人生』(中央公論社)を読んだときに抜き出した文章を記す。 加藤秀俊が語った「人物と人生」は、今日の時点でも納得感が高い。若いときにも読んだと思うが、本当には理解できなかったのだろう。人生の秋霜を経てきて、改めて読むとうなづくことが多い。

・「生きがい」ある人生とは、プライドをもって生きることができる、ということである。

・「ショート・ショート時代」、、時間的な持続力をもった人間が例外的な偉人として珍重される。、、もしも何十年かの人生を通じて、なにごとかについての持続力をもつことができるなら、それは、とりもなおさず、「生きがい」のある人生であった、ということである。

・年月は恐ろしい。、、、蓄積は貴い。、、だいじなことは、その蓄積をじぶんの力でつくるということである。自力でつみ上げていくことである。、、コツコツと蓄積していくこと---そのプロセスが貴重なのだ、とわたしは思う。

・「責任ある仕事」とは、、、自由のある仕事、ということになる。そして自由度が大きければ大きいだけ、責任も大きくなる。

・もしも、未来社会がより「ゆたか」な社会で、すべての人間が、最低の文化的生活を保障されるようになるのだとすれば、少なからぬ数の人間が、職業生活から脱落して、のびやかに二十日ダイコンをつくるようになるだろう。(小松左京『そして誰もしなくなった』)。

8万円の給料で働くよりは、5万円の社会保障をうけることを選ぶだろう。、、こうした生き方によってつくられる文化を仮に「若隠居」文化と呼ぶことにしよう。

・東洋の思想は「縁」という観念によてこの「偶然」を必然化した。

・道というのは、「えらぶ」ものではなく、「見えてくる」ものであるらしいのである。それは、ひとつの丘をこえてみて、はじめて、つぎの丘が見えてくるのに似ている。こうしようとおもってこうなるのではない。こうしてみようか、とおもってやってみると、やってきた結果として、次がみえてくるのである。

・世界は無数の断片のちらばりによってできあがっている、茫漠たるものだ。その断片のひとつに手をつけてみると、それが手がかりになってつぎの断片が見えてくる。そんなふうにして、いくつかの断片が見えない糸でつながり、関係づけられてゆく。、、このアミダくじ的世界観にもとづく作業の過程という以外のなにもんでもない。断片と断片を糸でつないでゆけば、ひょっとして、首飾りのようなものができるかもしれないが、、。

・毎日が選択肢の連続だ。こう、と決めたら、それでやってみよう、とわたしはいつもおもっている。そしてどうにかなるさ、と信じている。ほんとうに、どうにかなるものだ。

・将来、すこしづつ人間というものをより深く学びつつ、この領域(評伝・伝記)でのしごともつづけてゆきたいとかんがえている。

「時間的な持続力をもった人間が例外的な偉人として珍重される。、、もしも何十年かの人生を通じて、なにごとかについての持続力をもつことができるなら、それは、とりもなおさず、「生きがい」のある人生であった、ということである。」

2021年の90歳のHKラジオで、妻との日々をつづった『九十歳のラブレター』の本人の話を聞いた。65年間の二人三脚。昭和から平成に至る“世相史”にもなっている。

加藤先生と親しかった仙波純さんと先日会ったとき、「川喜田二郎久恒啓一の違いについて述べるから聞いてくれ」と言われて聞いたという。このエピソードには驚いた。

加藤先生の名言には長い間、励まされてきたと改めて思う。2021年に書いた「名言との対話」では「結局、紙と鉛筆があればよいのだ」を採ったが、今回は「生きがい」につながる「持続力」を採ることにした。そして加藤先生は「評伝・伝記のしごともつづけてゆきたい」と語っていた。これも今の私には参考になる。


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