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「名言との対話」9月3日。野田一夫「人と比べるな。過去の自分と比べよ」

野田 一夫(のだ かずお、1927年6月22日 - 2022年9月3日)は、日本経営学者事業家

立教大学教授、マサチューセッツ工科大学ポストドクトラル・フェローハーバード大学フェロー一般財団法人日本総合研究所初代所長、一般社団法人ニュービジネス協議会初代理事長、多摩大学初代学長、宮城大学初代学長、事業構想大学院大学初代学長などを歴任した。

野田先生の肩書には常に「初代」がついています。それは稀代のイノベーターであった証拠です。

私は40代半ばで野田先生に出会い、最初の著作『図解の技術』を高く評していただき、勤めていた日本航空を早期退職し、仙台の宮城大学で教鞭をとる幸運に恵まれました。その後、多摩大に移籍するときにも野田先生のお世話になりました。野田先生は私の生涯の恩師です。

一周忌に刊行した『野田一夫の大いなる晩年』(編集 野田一夫ファンクラブ)の「はじめに」と最後の野田先生の「ラポール」を掲載します。

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はじめに

野田一夫先生は、2022年9月3日に旅立たれました。享年は95でした。

野田先生は接した人たちに与える影響力の大きな人でした。影響力の大きな人を「偉い人」と呼びたいと思います。野田先生は周りに深く影響を与え、社会に広く影響を与え、そして長く影響を与え続けた「偉い人」でありました。

野田先生は、「ラポール」というハガキ通信を毎週1000人にのぼる友人・知人に配り続けていました。多摩大の創設前から始まったこのハガキ通信の内容は、多摩大学学長時代、宮城大学学長時代、いくつかの著書にまとめられています。

私たち仙台の野田一夫ファンクラブは、野田先生のこの影響を「永く」与え続けるための一つの試みとして、75歳から90歳までの「ラポール」を題材に、『野田一夫の大いなる晩年』という書物を編むこととしました。

それは2003年から2017年までの期間にあたります。「9・11」直後の21世紀初頭から、イラク戦争、2011年の「3・11」の東日本大震災、そして、2020年から始まる世界を覆ったコロナ禍の前までの期間になります。

国内では、総理大臣は、小泉純一郎安倍晋三福田康夫麻生太郎鳩山由紀夫菅直人野田佳彦安倍晋三の各氏の時代でした。

毎週届くこの「ラポール」を読みながら、野田先生のアクティブな日常が手に取るようにわかりましたが、今「ラポール」を改めて読むと、交流のあった各界の著名人や将来性のある若い友人などの人たち、海外や講演で訪れた国内各地の旅の様子、話題になっている本、そして日本の行く末についての感慨などが縦横に書かれており、見事な同時代史となっています。

この膨大な記録を年齢順に並べ直してみました。75歳の正月から始まり、喜寿、米寿を経て、90歳の卒寿で1000人が集まった品川グランドホテルでの大パーティで終わっています。「気」の人であった野田先生のアクティブな姿を目にする人は「人生100年時代」の晩年の生き方のモデルとして、大いに励まされることでしょう。

『野田一夫の大いなる晩年』を上梓することによって、「深く、広く、長く」影響を与えた野田先生の影響力を、さらに「永く」保ち続けることができれば嬉しい限りです。

              野田一夫ファンクラブ    久恒啓一

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「予想外の卒寿の宴」

                        2017年7月6日

健康に歳を重ねてきた私は、「卒寿の今年6月22日前後はいろいろお祝い会が重なるはず…」と覚悟はしていたが、その数は予想を遙かに上回った。「梅雨の最中でもあり、産業界各社の“株主総会の季節”でもあり」という理由で、先駆けは何と5月22日。これまで関係のあった5経済団体の共催。                  
 しかし一学究の身。数百人のささやかな会を予想していたが、当日来会者は千人近くに及んだのは、今も信じられない。石田純一君の司会で始まった会は、冒頭、小泉純一郎元首相の来賓代表挨拶、ジュディ・オングさんによる花束贈呈、友人代表茂木友三郎キッコーマン名誉会長の友情溢れる祝辞で始まった。   
 宴会前には、(若い頃、僕の赤坂オフィス来訪の常連で、早々と世に名を成した)“ベンチャー三銃士”のうち澤田秀雄HIS会長兼社長と南部靖之パソナグループ代表との対談が行われ、海外出張中の孫正義ソフトバンク社長は、わざわざビデオメッセージを送ってくれたではないか。衷心喜びを感じた次第。僕は何たる幸せ者!   
 我が人生を振り返れば、幼くして、日本の航空技術者を先駆けた父を憧れ、父に続こうとした青年時代までの一途な努力が、旧制高校時代の国家の敗戦で水泡に帰してから70年。心ならずも文科に転じ、社会人となり先ず大学教員としての職を得た時点でも、その職で人生を全うする気は全くなかったものだ。   
 だが「人生万事塞翁が馬」。早々と米国留学を果たした一先輩が土産にくれたP・ドラッカーの書に感激し、僕がその書の翻訳監修をしたことが縁で彼との交友が生まれ、MITに招かれ、2年間の研究生活の過程で“起業家”という絶好の研究テーマにも巡りあい…、僕の学者人生は終生活気に満ち満ちた。
  以来60年、素晴らしい起業経営者と相知り合い、多くを学び、学んだ成果を抽象化して書き語る一業界を中心に、人間関係をいろいろな分野で自然に広げ、かつ深めてきた。この間にどんどん増えた友人たちと、結婚満60年を迎えた妻と4人の子供たちに、心からの感謝を捧げつつ、本稿を終る。



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