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関ヶ原合戦祭りへ参陣~前編~

10月15日、10月16日は関ヶ原合戦祭りが開催されていました。
今回は、父の島津義秀が関ヶ原古戦場記念館にて薩摩琵琶の独演会開催、及び戦国島津展の開催が重なっていた為、私も現地へ参陣しました。

関ケ原西軍参戦及び寡兵の背景

 1600年、天下分け目の合戦と言われた関ヶ原の合戦があったことは、義務教育の歴史の中でも必ず触れる事柄でしょう。
 島津義弘は、当初東軍に所属するはずだったのですが、鳥居元忠に話が伝わっておらず結果として西軍に所属した背景があります。余談ですが。ここで鳥居元忠と共に伏見城に入っていたら結果として死んでいた可能性もあったので、結果オーライだったかもしれません。
 島津家がこの戦争に積極的に参加したか、といえばそうではありません。島津家はお家騒動の多い家で有名ですが、このタイミングでも「庄内の乱」というお家騒動が勃発していたので、その処理に追われ関ヶ原どころではありませんでした。

さて、そんな中関ヶ原に参陣した島津家の兵は総勢1,600名。石高から考えたらかなり少ない兵数でした。

関ヶ原駅ホームの看板

【閑話】参陣した兵の逸話~中馬重方~

 島津家の兵は総勢1,600名と先述しましたが、最初は200名程度しか居なかったと言います。ちょうどそのタイミングで甥の豊久が参勤で上洛していたので合流して、さらに薩摩から兄義久が許可せずとも己の意思で関ヶ原へ向かう者たちが居ました。そのうちの1人、中馬重方は、畑で農作業をしている最中にこの大事を知り、急ぐあまりに同様に上洛する武士から鎧櫃を強奪して上洛したと伝わっております。

別の逸話では、関ヶ原から薩摩へ帰国する際、疲労と空腹を解消するため馬の肉を食べようとしていた時に義弘が口へ運ぶのを取り上げます。
「殿は籠に乗っているだけだが、籠を持つのは我々だ。体力を使う自分たちが優先されるべきである」
義弘は「一理ある」とその行動を容認したそうです。

関ヶ原開戦

 島津家の兵数が少なかったこともあり、前夜の軍議では軽視されるような発言を多く受けたと伝わっています。島津家の戦略の基本は必ず勝つ事。その為には奇襲でもなんでも考えるわけですが、石田三成は全無視。そんな奴のいう事なぞ聞いてられるか、ということで当日は動かなかった島津軍。
 石田三成の使者は馬上から物言いするから無礼千万、斬らなかっただけありがたく思ってください、ということで追い返し、石田三成本人にせっつかれても追い返す始末。
 そうこうしているうちに小早川の謀反、それに呼応する朽木、赤座、脇坂などの軍によってバラバラになった西軍。いつしか島津家本陣は東軍だらけになりました。

関ヶ原古戦場で売られていた「うらぎりサイダー」

続きはまた後日。次回はいよいよ敵中突破です。

関ヶ原駅から古戦場記念館までの間にある壁画


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