見出し画像

『サマー・オブ・ソウル』はヒップ・ホップなBLM映画

(5 min read)

八月末以来日本で全国順次公開中の映画『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放送されなかった時』を観てきました。こちら愛媛県では十月初旬になってようやく映画館にかかったんですが、全国的にはまだまだこれからっていうエリアもあるようです。個人的な感想を書いておきましょう。

ヒップ・ホップ・バンド、ザ・ルーツのドラマーにしてミュージシャンのアミール・クエストラヴ・トンプスンが監督した『サマー・オブ・ソウル』、いったいどういう映画なのか?ということについては、すでにネット上にもたくさんテキストがありますので、ぼくがここでくりかえす必要はありません。

かのウッドストック・フェスティヴァルが行われた同じ1969年夏に、米ニュー・ヨーク・シティの中心地で開催された黒人音楽の祭典ハーレム・カルチュラル・フェスティヴァルに素材をとった映画なんですが、テレビや映画での公開を目的として撮影もされたにもかかわらず、そのマテリアルはなんと50年近くも地下に眠ったままだったんだそうです。

その事実じたいが「Black Erasure」(黒人の文化を軽視・抹消すること)にほかなりませんが、この映画と監督クエストラヴのもくろみも、まさにそのブラック・イレイジャーに対する異議申し立てにあったと、作品を観てぼくは考えました。ブラック・イレイジャーとは、この映画に関連してクエストラヴ本人が使っていることばです。

この映画は、ブラック・ミュージシャンたちの1969年夏の一瞬の輝きをとらえただけでなく、ブラック・カルチャーが構造的に軽視され、ときには無視されてきた事実を思い起こさせるための作品だったんだと思います。その意味では昨年来のBLM運動と連動・共鳴して、きわめて2021年的。

さらに、たんに音楽映画として演唱シーンをたっぷりそのままは使わず、ステージでの演唱シーンに現在のインタヴューや証言などがたくさんモンタージュされているわけですが、膨大な量のコンサート・テープを託されたクエストラヴは、そのたった15%しか使っていません。そのことで、一部の黒人音楽ファンからは不完全燃焼だったとの感想もあがっているようです。

しかし、それはこの『サマー・オブ・ソウル』がどういう映画なのか、理解していない声だと言わざるをえません。ステージ演唱シーンに数々挿入される証言インタヴューなどの背後に、インサート前のハーレム・カルチュラル・フェスティヴァルでの生演唱音楽が小さな音量でずっと続けて流れていたし、インタヴュー挿入後はそのまま演唱シーンに戻っていました。

音楽を止めて証言シーンに移行していたわけではないし、決して音楽と社会的証言に分断されていたわけじゃありません。さらに最も重要なことは、そうした数々の挿入にリズムがあったことです。音楽/証言/音楽というモンタージュがどこまでもリズミカルだったんです。各種証言などもふくめて一個の大きな「音楽」になっていました。

そうした編集がDJ的だったといいますか、ヒップ・ホップ的な切り貼り、ループ、換骨奪胎手法をフルに活かしたビート・センスがあったなあというのがぼくの正直な感想です。さすがはヒップ・ホップ・ミュージシャンのクエストラヴが監督をやったというだけあります。

ステージでの生演唱音楽をトラックにして、各種証言はその上に乗るラップ、リリックとして使ってあるとでもいいますか。

映画を監督してこのようになるっていうのは、そうしたビート感覚が皮膚感覚的にクエストラヴの肉体にしみこんでいるものだっていうことなんでしょう。このような意味において、『サマー・オブ・ソウル』は本質的な意味でのコンテンポラリーなブラック・ミュージック映画であると言えます。

ただひたすら1969年当時活躍中だったブラック・ミュージシャンたちのステージでの演唱をたっぷり味わいたいという目的をもってこの映画を観に行くと、ちょっと欲求不満が残るかもしれませんね。

1969年夏のハーレム・カルチュラル・フェスティヴァルにおける演唱音楽は、それはそれとしてまた別途(ディスクでもサブスクでも)リリースしてほしいとぼくも思います。

個人的にはスライ&ザ・ファミリー・ストーン、メイヴィス・ステイプルズの助けを借りてのマヘイリア・ジャクスン、フィフス・ディメンション、モンゴ・サンタマリアやレイ・バレットなどラテン音楽パート、が特に印象に残りました。

(written 2021.10.13)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?