従来型での臨界点 〜 コルトレイン「トランジション」
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John Coltrane / Transition
死後1970年になって発売された(つまり未発表集だった)ジョン・コルトレインのアルバム『トランジション』。1965年の5&6月録音です。Spotifyにあるのはオリジナル・レコードどおりの収録曲と曲順ですね。これ、たしかCDリイシューの際にインパルスがなぜだか収録曲をだいぶ入れ替えちゃったんですよ。その後、日本盤CDで元に戻ったりもしていて、ぼくはその日本盤を持っています。ともあれ、やはりオリジナルLPどおりのほうが好きですね。
1曲目の「トランジション」と3曲目の「スウィート」が1965年の6月10日のセッションで、ちょうどこの時期は同年同月28日に『アセンション』を録音したあたりになるんですね。だから曲題&アルバム題のとおり、その直前の「移行」期ということで、従来的なモダン・ジャズからアトーナル(無調)なフリー・ジャズへと踏み込む直前ということになります。
ぼくは特に1曲目のその「トランジション」がむかしから大好きで、適度に保守的、適度に過激で、聴きやすく、それにアトーナル&フリー・リズムな音楽がどうしても好きになれない、生理的にムリっていう(例外はあるけど)嗜好の持ち主なんで、かといってあたりまえなメインストリーム・ジャズではつまらないという、そんな気分のときに曲「トランジション」が本当にピッタリ来るんですね。
もうひとつ、曲「トランジション」が聴きやすく大好きだと思える理由として、ブルーズだからというのもあると思います。もちろん3コード12小節といった定型ではないんですけれども、これは間違いなく変形ブルーズで、ちょっと修飾がついているだけのものなんです。大のブルーズ好きという個人的趣味もあいまって、曲「トランジション」のことがお気に入りなんですよね、たぶん皮膚感覚で。
言えることとして、実験とか新表現に踏み込むときって、一方で従来的なフォーマットの枠を借りて、それを抽象化したりして行うっていうことが、音楽でもそのほかの表現領域でもあると思うんですけど、トレインも過激でフリーキーな演奏を行う素材として(もはや気持ちはフリー・フォーマットに向いていた時期だと思うし)ブルーズを借りてきたということじゃないかと、ぼくは考えています。
それでリズムも定常的なビートの刻みを残しつつ(といってもここでもエルヴィンはポリリズミックに叩いていますけど)、上物たるトレインのテナー・サックス・ソロは従来的なブルーズ・モードの範囲内ではもはやこれが限界とまで言えるほどの過激で実験的な表現を行なっているんじゃないでしょうか。フリーキー・トーンも連発していますしね。
それからこの「トランジション」は、トレインお得意のいわゆるシーツ・オヴ・サウンズの臨界点とも言える演奏だなと思うんです。無数の音で空間をビッチリと敷きつめるような超饒舌さがここに極まっているなと、そう聴こえますよね。トレインのシーツ・オヴ・サウンズは、まだマイルズ・デイヴィス・バンドのメンバーだった1960年ごろに一回ピークに達したわけですが、そこからさらに数歩進んだ表現を聴かせているでしょう。
そんなこんなで、メインストリーム・ジャズの枠にある従来的な演奏といった部分も残しつつ、トレイン・カルテットにしかできない表現で、しかも過激でフリーキーで、ある意味フリー・フォーマットなジャズをも予告しつつそこまでは踏み込まないっていう、そんなギリギリの臨界点に1965年6月10日時点で到達したっていう 〜〜 そんな記録であろうと思いますね、曲「トランジション」。
むずかしいことを言わなくたって聴けば快感だし、ちょうどいい程度に刺激的で、聴きやすいんですけど、トレイン自身はこのときのセッション内容に不満で、アリス・コルトレインに「自分が死んでも発売するな」と言いわたしたそうです。ぼくらとしては聴けてよかったなと思えますよね。
(written 2020.8.10)