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マイルズ at 人見記念講堂 1988

(13 min read)

マイルズ・デイヴィスを知ったのは1979年のことだったので、ちょうど一時引退中。だからライヴに触れることができるようになったのは81年以後の来日でのことです(だからねえ、80年代マイルズには思い入れあるんですよ、村井康司さん、わかります?)。

そんななかでも特に1988年8月に三軒茶屋の昭和女子大人見記念講堂で聴いたコンサートは、最もすばらしかった、最もあざやかだったものとして、ぼくの記憶にクッキリ焼きついているんですね。いままでも一、二度している話ですが、あのときはマジで最高だったなあ。

ちょうど東京都立大学(当時は東横線沿線)英文学研究室の助手として働いていた時期。京王線のつつじヶ丘に住んでいましたから、まず下高井戸まで行き、そこから東急世田谷線で三軒茶屋まで。世田谷線にはあのときはじめて乗りました。三軒茶屋の街に行くのもはじめてで、だからちょっと早めに着き人見記念講堂の場所だけ確認しておいて、いったんカフェで休憩しました。

ほぼ定刻どおりにバンドのみんながステージ下手(向かって左)から出てきて、「イン・ア・サイレント・ウェイ」(ジョー・ザヴィヌル)を演奏しはじめたんですけど、肝心のボスはまだ姿を現しません。すぐにトランペットの音だけが聴こえてきて、次いで吹きながらソデから歩み出てきました。

人見記念講堂のそのときのステージは、ちょうど中央にボスの弾くキーボード・シンセサイザーのラック、その右手にアダム・ホルツマン、左にロバート・アーヴィング III(ともにキーボード・シンセ)。マイルズの真後ろの台にリッキー・ウェルマン(ドラムス)がいて、その左、ロバート・アーヴィングの左横にベニー・リートヴェルト(ベース)。アダムの前方にケニー・ギャレット(サックス)、そのすぐ右横にフォーリー(リード・ベース)。最上手前方にマリリン・マズール(パーカッション)。

亡くなってから知ったことですが、「イン・ア・サイレント・ウェイ」をライヴのオープニングに使っていたのは1988年だけ。マイルズはこの曲、ほんとうにとても好きだったんです。といっても88年のライヴではバンドがそのメロディを演奏するだけで、マイルズはその上を自由に舞っているという感じのフレーズを散らしていました。

あのときの鮮明なライヴ体験、忘れられないものですけど、追体験しようにも1988年のライヴ音源は死後もなかなか出なくて困っていました。例の大部な(20枚組だっけな)モントルー完全ボックスが発売されて、それに88年7月のライヴ分も収録されていましたから、三軒茶屋のひと月前のライヴということで、メンバーは同じ、たぶんセット・リストも似たような感じだったよねえということで、それを聴きながら思い出にふけります。

だからきょうの話も、その88年7月のモントルー・ライヴに沿って進めます。あの人見記念講堂ライヴでは、まだ知らなかったレパートリーも多かったというのが、あのとき客席で聴いていての率直な印象だったもの。ぼくなんか知らない曲を、特にライヴではじめて聴くときは五里霧中になってしまいますから、客席でどうしたもんか?と思っていました。

だって、オープニングの「イン・ア・サイレント・ウェイ」はほんの短いプレリュードにしか過ぎず、そのまま連続して「イントゥルーダー」になだれこみますが、これも当時知らない曲です。ほとんどの一般のマイルズ・ファンもそうだったはず。曲名だって、知ったのは『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』が発売された1996年のことです。死後五年目。

もっとも『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』にしたって、どっちかというとおなじみの曲を多く収録しているものですから、87〜90年当時のマイルズ・ライヴの定番レパートリーで88年三軒茶屋でも演奏された「ザ・セネット〜ミー&ユー」とかニール・ラーセンの「カーニヴァル・タイム」とか、88年だけのレパートリーだった「ヘヴィ・メタル」とかプリンスの「ムーヴィ・スター」とか、モントルー・ボックスがリリースされる2002年になるまで名前すらもわからなかった曲でした。

ところで、その「ヘヴィ・メタル」。「ヘヴィ・メタル・プレリュード」と「ヘヴィ・メタル」のメドレーになっているものですが、前者は曲というよりマリリンのパーカッション・ソロをフィーチャーした内容。本編の後者がフォーリーのメタリックなギター(と言ってしまおう、四弦のリード・ベースだけど)弾きまくりのハード・チューンで、こ〜れがもう超絶カッコよかった。

バンド、特にサックスとキーボードがキメのリフをくりかえすなか、それにフォーリーがからみつくように弾いているかと思うと、後半ではフォーリーひとりを大きくフィーチャーした、それこそヘヴィ・メタルなロック・ナンバー。ロックというよりファンクに近いのか、そんな一曲でしたねえ。88年8月の人見記念講堂で聴いたなかで、いまでもいちばん鮮明に憶えているのが「ヘヴィ・メタル」(という曲名も知らなかったわけだけど)です。クライマックスだったに違いありません。

プリンスの「ムーヴィ・スター」(プリンス・ヴァージョンは『クリスタル・ボール』収録)もよく憶えています。これも現場でなんだかわからなかった曲ですが、なにか軽〜い、ちょっとふざけたようなユーモラスな、おどけた調子のものを一曲やった、そのとき自動車のブレーキ音みたいなのがサウンド・エフェクト的に入っていたというのを客席で聴いて、なんじゃこりゃ?と思ったんでした。

それから、数曲でケニーやフォーリーがやたらと長尺のソロをとるなあという印象もあって(「ヒューマン・ネイチャー」のときのケニーのアルト・ソロなんか、あんまりにも長いんで、客席でうんざりだった)、いまふりかえったらそれはマイルズの衣装チェインジ・タイムだったんですよね。長いソロをとらせているあいだに自分はソデに引っ込んで衣替え。どうだ、カッコいいだろう?というドヤ顔で再登場するわけです。

ボスはひょっとしたらそのときトイレにも行ったかもしれません。しかしバンド・メンバーは、トイレ、どうしていたんでしょうかねえ。モントルーのでも88年のステージは2時間14分。そう、三軒茶屋でもそれくらいでした。しかもニ部構成じゃなくてノン・ストップなんですよ。客席のぼくだってオシッコ我慢できなくておおいに弱った憶えがあります。バンドのみんなはあからじめわかっていたことだから、ライヴ前に水分を摂りすぎないようにしていたのかなあ。

もちろん「ヒューマン・ネイチャー」「タイム・アフター・タイム」「ツツ」「ブルーズ」「パーフェクト・ウェイ」といったおなじみの曲もやりましたが、解釈があたらしくなっていたので、新鮮な気分で聴くことができました。特に復帰後のマイルズの代名詞になったシンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」は、後半さわやかで軽快なアップ・ビートが効きはじめるという新アレンジで、88年だけじゃないですか、そういうのは。

一曲終わるとボスが(トランペットにくっつけているミニ・マイクに向かって)なにかしゃべるんですけど、聴きとれなくてですね、音から察するに「ケニー!」とか「フォーリー!」とか、その曲で目立って活躍したサイド・メンバーを紹介したんだと思いますが、マイルズってあんなしゃがれ声ですからね、かつてアル・フォスターも「なに言ってるかわからないんだけど、マイルズに聞き返せないだろう?」と苦笑していたことがありました。

この三軒茶屋のときじゃないけど、サイド・メンバーの名前が大きく書かれたプレートみたいなのを掲げてみせるということをやっていた年もあったようです。そういった写真や動画をちょこちょこ見かけます。この手のことは、1981年復帰後、特に86年のワーナー移籍後のマイルズの変化を示すものです。考えられないことですよねえ、以前のマイルズだったなら。

衣装もそうだけど、ライティングふくめ、ライヴ・ステージ全体がずいぶんとショウ・アップされるようになっていたなあというのも、88年三軒茶屋ライヴでの印象。これもワーナーに移籍してプリンスとレーベル・メイトになって以後の顕著な変化の一つでした。キマジメなジャズ・ファンやクリティックはそういうのバカにするかもしれませんし、実際バカにされていました。

七月のモントルー・ライヴでは、ラストが「トマース」になっていますが、八月の三軒茶屋でもアンコールで演奏されました。しかもやはり同じアルバム『ツツ』からの「ポーシア」とのメドレーで。アンコールなんかも、かつてのマイルズだったら絶対に応じなかったわけですけど、このときなんかニ回もやったんですよねえ。「ポーシア」はオーラスでした。

アンコールでも、マイルズはもちろんそれ用の衣装に着替えて出てきましたが、ニ回目なんかはブラック・ライトに映える蛍光衣装で出てきて、ステージを真っ暗にして、闇のなかでボスの衣装とトランペットだけが異様に光っているんですよねえ。その状態で「ポーシア」が演奏されました。

ぜんぶ終わって、ボスが去り、バンド・メンバーが去っても、キーボードの音を鳴らしっぱなしにしてあって、「ポーシア」で最後の最後に演奏されたサウンドが消えないままずっと残っていました。それが徐々に小さくなって消え入るころに客席が明るくなって、ぼくらも席を立つことができたのです。

(written 2021.6.18)

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