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『リスペクト』もまたBLM映画だった

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(リンクはサウンドトラック・アルバム)

アリーサ・フランクリンを描いた映画『リスペクト』を観てきましたので、手短に感想を記しておきます。それにしても二時間半はちょっと長大だったかも。しかも松山の映画館では、きのうぼくが観た回、たったの三人しか客がいませんでした。

『リスペクト』というタイトルからして、そして2018年に亡くなったアリーサの歌手人生がどんなふうだったかを知っていると、黒人で、しかも女性である自分のことを尊重してほしいという、一種のBLM的な映画なのかも?と想像していました。

はたしてその予想はぴったり当たりましたね。『リスペクト』、父C. L. フランクリン師に導かれていっしょにゴスペル・サーキットをまわり歌っていた幼少時代から、1960年代のコロンビア時代、67年アトランティックでのブレイク、そして72年のゴスペル・アルバム『アメイジング・グレイス』までをとりあつかっていますが、一貫して流れていたのは、あの時代黒人がどう尊厳を保って生きたか?というテーマです。

そういえば以前1969年ハーレム・カルチュラル・フェスティヴァルのドキュメンタリー『サマー・オブ・ソウル』も観ましたが、今年に入りこうした1960年代末ごろ前後の黒人音楽や黒人歌手をとりあげるブラック・ミュージック・ムーヴィーが続いているのも、昨年来のBLM運動の持続を反映してのことじゃないかと、ぼくは踏んでいるんです。

あの時代、つまり公民権運動が熱気だったあのころに生きたブラック・シンガーたちがどのように社会や人種差別(や女性差別)と向き合い、真摯に生きたか、ということは、2020年代の現代にまで連綿と連なっている、まさに<リスペクト>の問題なんだろうと思います。

ブルーズやゴスペルに強く立脚したあのころのブラック・ミュージックと、ヒップ・ホップ以後の現代ブラック・ミュージックは違うのだ、という意見もありますが、ぼくはそう思っていなくて、連続しているんじゃないかと感じています。それは『サマー・オブ・ソウル』を観たときにも感じましたが、『リスペクト』でも実感したことです。

アリーサ・フランクリンという一人の人間の真摯で気高い生きかたが胸を打つということはもちろんありますが、それ以上にあの時代、社会、人種問題、性差別問題など、2020年代の現在とあまりにも似通った共通のテーマがあの時代から流れていたということに気づくからです。

事実関係の検証や細かなことはすでにレヴューや記事、感想文がネットでもたくさん読めますので、気になったかたは検索してみてください。しかしぼくがこの映画『リスペクト』日本語字幕版を観て強くいだいた違和感のことは記しておかねばなりません。

字幕版だから音声は英語オリジナルのままが聴こえるのですが、劇中アリーサは幼少時代から終盤の72年まで、家族から愛称の「リー」で呼ばれていました。Arethaはアリーサだから愛称がリーになるわけです。そんな部分では字幕も「リー」と出ていました。

ところがレコード会社、スタジオやコンサートのスタッフなどから「Aretha」と呼びかけられるとき、字幕はやはり「アレサ」になっていたんですよね。次の瞬間父CLが出てきて「リー」と呼んだりしたので、字幕で追っている観客は整合性がとれず、音声とも食い違い、混乱するはず。

実際、「アリーサ」と呼ばれている場面でどうして字幕が「アレサ」なの?じゃあどうして愛称が「リー」になるの?と、理解できず、はてなマークが頭に浮かぶ観客が大勢いるんだという話を読んだことがあります。当然ですよねえ。

日本人は英語が苦手だとかなんとかいう問題じゃないです。これは歌手にかかわること、つまり音楽のことで、すなわち「音」をどう発するか、どう聴こえるか、という重大な問題です。音は聴けばわかります。アリーサとアレサでは違いすぎ。

日本語版映画字幕とかは日本のレコード会社方面やマスコミにも配慮しないといけないのでしょう、だからぼくら長年の日本人アリーサ・ファンは「アレサ」と字幕が出てしまう理由がわかりますし、あきれて苦笑するだけ。でもそうじゃない若い映画ファン、『リスペクト』ではじめてこの歌手を知ったひとたちなんかは、さっぱりワケがわからなかったそうですよ。

(written 2021.11.16)

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