【推しの子】とは"星野アイ"の擬漫画化である。ストーリーの二重構造

アニメ2期クライマックスと本誌最終章を迎え、何かと話題になっている【推しの子】。最近の気づき等を備忘録としてメモしておく。(2024/09/29時点。10/31追記・ブラッシュアップ)※最新話付近のネタバレを含みます。

ざっくり3行でまとめると…

  • 推しの子って凄い簡単なお話に見えるよね

  • でも実は意外と複雑かも。無茶苦茶わかりづらいけど

  • それってまるで”星野アイ”みたいだね


◆【推しの子】の第一層

【推しの子】のストーリーは一見すると非常にわかりやすい作りになっている。"星野アイ"を殺した真犯人を追う、という目的がひとつの柱になっているものの、難解な推理パートなどはなく、ただ淡々と出来事が紡がれている。良く言えばシンプル、悪く言えば単純な構成だと思う。例えば、以下のような指摘。

各々の視点が同時進行する構成の場合、ストーリーに深みが出る反面、話が飛び飛びでとっ散らかったり、長期連載ともなると「今誰がどうなってたっけ?」と手が止まる、ということがしばしば起こる。その点キャラクターが交互に動く構成の場合、話がストレートに進むから単純に読みやすい。
【推しの子】は若年層にも人気を博しているが、それこそ小学生でもスラスラ読めることだろう。(子供に向かない内容は兎も角として)

しかし、これはあくまで【推しの子】の第一層、表面だけの話であり、実はその裏にはもうひとつの顔があるのでは?というのが、最近の気づきだった。というか、ようやく自分の中で解釈がまとまった。

◆【推しの子】の第二層

●うみねこのなく頃に、そして、西尾維新

きっかけは以下の指摘。

【推しの子】とは"うみねこのなく頃に"、あるいは"西尾維新"だったのである!(どーん!!!)

この指摘は目から鱗だった。色々なモヤモヤがストンと腑に落ちた。そしてこれをきっかけに、【推しの子】は単純なストーリーで進む"第一層"と、うみねこや西尾維新のような複雑性を持つ"第二層"に分かれているのでは?という考えに思い至った。
※うみねこのなく頃にや西尾維新について語りだすと日が暮れるので省略。
以下、第二層の複雑性を感じる点をふたつ例に上げる。

●”嘘つき“は誰だ?

ひとつ。この作品のテーマが「嘘」であることは自明だが、どうも何が真実で何が嘘か、明確な答えは提示してくれない模様。
先に紹介したカミキヒカルに対する指摘が正にそれだが、彼の行動に対してどのように解釈するかは、アクアや読み手に委ねられている。これ、分かった上で読まないと理解が難しいと思う。

アクア自身も信用できない語り部である可能性が高く、「他にも嘘つきがいるのでは?」と疑いだすとキリがない。

例えばツクヨミ。プライベート編でルビーに「ゴロー殺害現場に中学生くらいの男の子がいた」と証言したが、後にこれは嘘であることが判明する。
当時中学生くらいの男の子とは言うまでもなくカミキヒカルのことであるが、実際にゴロー殺害現場に居合わせたのはリョースケとニノであり、カミキ本人は現場にいなかったと考えられるからだ。(今後、実はカミキヒカルがその場でこっそり見ていた、といった描写がなされる可能性はあるが。)

ツクヨミが何故このような嘘をついたかは自明で、当然ルビーを焚きつけるためだ。ツクヨミの視点は文字どおり「神の視点」であるため、それをそのまま伝えても、ルビーは信じないだろう。
「私神様なんだけど、実は~」とかあの時点のルビーに言ってみろ、さすがのルビーもグーが出るよ。

重要なのは「ゴローとアイを殺したのは同じリョースケ」「そしてその裏にもう一人の黒幕=カミキヒカルがいる」という情報をルビーに信じさせることであり、そのために嘘を交えたんだろう。

ところが、「実はアレ嘘だたんだよね~」なんてツクヨミからのネタバラシはやってくれないのである。うぉん(泣)。

●”語らない”語り部

ふたつ。【推しの子】では、特に主人公アクアの独白が非常に少ない。例えば2.5次元舞台編終盤、姫川大輝がアクアの腹違いの兄弟であったことが判明する。通常の漫画であれば、まずアクアがDNA鑑定の結果を目の当たりにし、「これは…!!!」と驚いたり、稽古中姫川に「姫川大輝…俺達の腹違いの兄…」と複雑な視線を向ける描写が入るはずである。

無い。終演後の飲み会の最中、突然アクアが姫川に鑑定書を突きつけるのである。当時の読者もさぞ面食らったことだろう。

【推しの子】は、このように道中をすっ飛ばして結果だけ見せてくることが非常に多い。余計なところは省いて見せたい所だけを描いているのである。アクアとツクヨミの馴れ初めとかいらない。実は既に知り合いでしたでいい。アクアが星野あゆみにたどり着くまでの話とかいらない。アイの母親にインタビューしたという事実だけでいい、とか。
作中で語られない以上、その裏で起こったことは読者が想像で埋めるしかない。

ルビーがアイドルとして研鑽する描写が少ないのも、恐らくは意図的じゃなかろうか?彼女の目指すアイドルは「芸能界の"光"と"闇"」の光の部分。闇の部分はアクアが存分に担ってくれているので、ルビーはキラキラ輝いているだけでいい。
かの名曲の歌詞のように「知りたくないとこは見せずに」、まるでダイジェストの如く、ルビーはアイドルへの道を駆け上がっていく。

言うまでもなく、"星野アイ"のアイドルとしての描写も意外と少ない。「アイは色々あってトップアイドルになりました!」「アイドルってこういう物でしょ?」でおしまい。3分クッキングにおける「出来上がったものがこちらです」がお出しされるわけだ。

一方で想像が妄想になってしまっても当然NG。書いていないことを「こうに違いない!」と決めつけてしまっては、正しく理解できるはずもない。
起こった出来事、キャラクター(特にアクア)の内面、それらを時に繊細に、時にばっさりと、察しなくてはならない。

【推しの子】とは本来、僕達のようなタイプが最も苦手とする”空気を読む”能力をフル活動させないと理解できない作品、と言えるのではないだろうか。

◆余談:なぜ【推しの子】最終章は荒れるのか

余談だが、僕達は何らかのコンテンツに触れるとき、その作品の難易度によって脳をチューニングした上で向きあっている。サザエさんを見るときは脳を空っぽにしているが、エヴァンゲリオンを見るときは腰を据え、脳をフル回転させていることだろう。ところが「サザエさんの裏で実は人類補完計画が進んでいた…!」とか言われると、いきなり難易度が上がりすぎて脳がフリーズしてしまう。
【推しの子】最終章での一部読者の混乱の正体はこれではないか?というのが私的な見解である。

人気作品には多種多様な人が寄ってくるので、荒れるのはむしろ当たり前。Not for meができずにワガママを喚き散らす人、人気作品を叩いて「自分はお前らとは違うぜ!」を演出したい高二病の人、特定のカップリングを信仰し他カップリングを認めない人、などなど。有象無象が殴り合いの大喧嘩!はもはや宿命だが、それにしても【推しの子】に限っては何故ここまで各々が"ズレて"いるのか?この違和感の正体はなんなのか?
その答えもようやくわかってきた。

つまり、これまで第一層の簡単さに騙されて寄ってきた読者達は、最終章でいよいよ本格的に姿を見せた第二層に面食らっているのではないか?

最終章への批判を見ていると、

  • 比喩表現が理解できない

  • 登場人物の立場で物事を想像できない(サリー・アン課題?)

  • 書かれていないが自明である事実がわからない

  • 逆に書かれていないことを妄想で埋めてしまう

  • フィクション(”嘘”)をフィクションと割り切れず突っ込まずにはいられない

等の傾向が見え隠れしているように思う。(中には本当にちゃんと読んでたのか、文章どころか文字も読めてなさそうな人の批判も目にするが…)これでは到底第二層は理解できず、「話が滅茶苦茶だ!」「作者は話を畳むのが下手!」となってしまう。

しかし、それも無理はないのである。彼らはサザエさんのつもりで【推しの子】に入ってきたのだから。ただでさえ本作は、メンゴ先生の可愛らしい作画・魅力的なキャラクター・時折見られるコメディや恋愛要素のせいで、イメージがひっぱられがちだ。
我々は(意図的にせよ、そうでないにせよ)アホにさせ”られた”上で、作品を誤解するように仕向けられていたのではないか?

もっとも、「わかるかこんなん!!!」と作者に言いたくなる気持ちもよーーーく理解できる。そもそも、わかってもらえるように描かれていないのだから質が悪い。イジワルな作品とさえ言えるかもしれない。
解釈を読者に(丸投げに近い形で)委ねている以上、読み手によって見ている世界がバラバラなわけで、そりゃ文字通り”解釈違い”で荒れる人も出てくるだろうよ。

もちろん、コンテンツに対する向き合い方が根本から違う人もいるだろう。僕なんかはあくまで娯楽だからと、細かいことは気にせずになんでも美味しく平らげてしまう質だが、重箱の隅から隅まで突かずにはいられない、気に入らない事があると許せない、キャラクターを、作品を、作者を、否定せずにはいられない。憎悪せずにはいられない。そんな人もいるだろう。(というかたくさん見た)
その精神性とエネルギーがどこから来るのか、まだまだ不勉強で理解が及ばないが、それはそれでまぁしゃーない。Not for youだった、と言う他ない。なので申し訳ないがここでは例外として隅に置かせてもらう。

以上余談終わり。

◆まとめ:【推しの子】と"星野アイ"と僕達

さて、ここまでで【推しの子】という作品の特徴を以下のように整理してみた。

  • 表面上はシンプル

  • しかしその下には複雑な別の一面がある

  • 見せたい所だけ見せてくる

  • 肝心な所は語ってくれない。読み手の判断に委ねられる

これ、何かに似ていないだろうか?
そう、"星野アイ"である。

アイは完璧無敵の究極アイドル。みんながそう信じていた。でも、それは"星野アイ"の第一層に過ぎない。母親に虐待の果に捨てられ、愛を信じられず、仲間からは虐められ…果たして彼女の第一層の下は如何様な物だったか。
だがアイは既に故人であり、もはや真実は誰にもわからない。アイは自分のことを殆ど語らなかったからこそ、各々が想像で解釈するしかない。

「15年の嘘」でルビーがたどり着いたアイの姿さえ、あくまでルビーの解釈、数多ある"星野アイ"という存在に対するそれのひとつに過ぎず、徹底してアイの真実は読み手に委ねられている。

つまるところ【推しの子】とは、"星野アイ"という少女の擬漫画化ではなかったか?あるいは【推しの子】の擬人化が"星野アイ"だったのではないか?
というのが、最近になってようやく纏まった結論。

【推しの子】は、現実を巻き込む作品でもある。第三章でリアリティーショーや誹謗中傷の恐ろしさが取り上げられれば、現実でも類似の事件が起こる。第五章で漫画実写化の難しさ、原作者と脚本の苦悩が描かれれば、やはり現実でも同じようなことが起こる。
作中の人々と同じように、キャラクターや作者を誹謗中傷する人が現れる。キャラクターを勝手に解釈し、都合の良い代弁者にする人が現れる。
【推しの子】に相対する僕達と、その周りの社会そのものが、まるで作品の一部であるかのような錯覚さえ覚えてしまう。

結局、【推しの子】に熱狂する僕達もまたアイの狂信者と変わらない。あるいは【推しの子】に理不尽な批判をぶつけてくる人も、リョースケ君や、あかねを自殺寸前まで追いやった加害者達と変わらないんだぞと、これでもかと突きつけてくるようだ。

以上。
引き続きあーくんをよしよしする作業に戻る。

◆追記:【推しの子】はダンガンロンパだった…?

10/31追記:
【推しの子】と同じく”嘘と真実”をテーマとし、更にそこから生まれる“希望と絶望“を描く作品を思いだした。ダンガンロンパだ。
彼の名作もまた、セオリーを破壊し、プレイヤーを翻弄し、そして最後まで我が道を貫き通した。シリーズはダンガンロンパ3とV3にて完結するが、当時はやはり一部の人からの反発も多かったと記憶している。

【推しの子】もいよいよ残すところ2話となり、その姿は何やらダンガンロンパの最後とも重なる。「この物語はフィクションである」から始まったこの作品も、彼の名作と同じように、またフィクションへと帰っていくのだろうか。

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