現実を侵食する虚構。【推しの子】というリアルすぎるフィクション
ついに最終回を迎えた【推しの子】。僕自身未だ興奮冷めやらぬ中ではあるが、自分なりの解釈や感じたことを忘れないうちに書き殴っておく。
※最終章のネタバレを含みます。
◆始めに
先に断っておくと、自分は【推しの子】を高く評価し、この名作を生み出した鬼才、赤坂アカ・横槍メンゴ両先生に敬意を表する次第である。無論手放して称賛するつもりはなく、かなり人を選ぶ作品であろうことは重々承知の上だが、少なくとも【推しの子】という作品に出会えたことは僥倖だったと思う。なので、この記事では基本的に本作を肯定的に書いている。批判は他の方がこれでもかとやってくれるだろう。
もちろん、今の段階で世間が【推しの子】を正しく評価できる段階にないことは理解している。既に何が何でも『【推しの子】は駄作!赤坂アカは無能!』として袋叩きにするフェーズに入ってしまっているからだ。
加えて、アクアが死んだことで立ち直れないほどのショックを受けている人、望んだハッピーエンドにならず赤坂先生に憎悪を向ける人も少なくない。いずれにしても、僕達が落ち着いて【推しの子】に向き合うには、まだまだ時間がかかるだろう。
したがって、多くの方にとって以降の駄文はお目汚しになる可能性が高い。あらかじめご承知おきください。
『ダンガンロンパ』というシリーズがある。スパイク・チュンソフトより発売された推理ゲームを発端とする一連の作品群で、アニメ化、漫画化など様々な媒体でも展開された人気作である。
その最終作【ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期】は衝撃的な内容だった。ネタバレになるので詳しい言及は避けるが、謂わば第四の壁を超え、フィクションと現実が混ざり合い、プレイヤーさえもまるでゲームの中の登場人物になったかのような体験だった。
あの時の感動が、令和の時代になって再び味わえたことに正直驚いている。以下、その理由を書き連ねていく。
ざっくり3行でまとめると…
【推しの子】最終章叩かれてるね
でも、それだけ魅力的な作品だったってことだよね
僕達の狂乱っぷり、まるで【推しの子】の世界に取り込まれちゃったみたいだね
◆真:何故【推しの子】最終章は荒れるのか
前回、何故【推しの子】最終章は荒れるのかを考察した。自分で書いておいて何だが、この考察は理解が浅い。あくまで本件の第一層だ。余談なので深く追求しなかったが、最終回を踏まえ、今一度向き合う必要がある。
僕達は"嘘つき"だ。他人よりも誰よりも、まず自分自身に対して嘘をつく。本心を隠して、本人すら気づかないうちに、言葉で言い訳をしてしまう。
いくつかの例を挙げ、【推しの子】を巡る読者の言葉の裏側を探っていきたい。
深掘れ☆ワンチャン!!!
※尚、先に挙げたように、本作は既に袋叩きにされるフェーズに入っている。従って「叩く流れだから」「こいつは叩いていいから」「とにかく何でも叩いてやろう」といった観点の声や、「俺は駄作だと分かっていたぜ!」といった高二病の類は除外させてもらう。話が進まないからね。
…結論から先に書いてしまうと、赤坂アカ・横槍メンゴ両先生が『嘘を信じさせる"手"』を持っていたからだと考える。
●1.1 フィクションへの向き合い方を忘れた読者達
【推しの子】に対する批判の1つに『周囲の大人達が無能すぎる』というものがある。例えば警察。アイ殺害の真相を突き止められない、カミキヒカル周りの真相にたどり着けない。
例えば斎藤一護。アイやニノの近くにいながら、長年真犯人を追っていたのに、真相にたどり着けない。アクア達を放置している。
確かにその通りだ。しかし、よくよく考えれば当たり前である。警察や周囲の大人達が有能であったなら、そもそも物語が始まらない。目黒警部が立ち所に事件を解決してしまっては、眠りの小五郎・江戸川コナンが活躍することはない。捜査一課が即犯人を逮捕できたなら、杉下右京は特命係の片隅で延々AVの審査を続けとっくにボケていただろう。
父親不在も同様だ。『ポケットモンスター』主人公サトシの父親は行方不明。『僕のヒーローアカデミア』主人公デクの父親はついぞ影も形も現れなかった。一護は本来父親ポジションの大人だが、だからこそ活躍してはいけないのである。
少年少女が主役である創作物において、保護者の存在は邪魔でしかない。大人達が大人の力で問題を解決してしまっては、主人公達に活躍の機会はない。よって、フィクションにおいては不自然なまでに保護者が出てこない。何故か夫婦そろって海外だとか、そもそも家族に全く触れられないことも多い。
母親はまだいい。主人公達を見守る、というポジションが取れる。しかし父親はダメだ。創作において、それは目指すべき目標とか、超えるべき壁といった意味を持つ。父と子の物語が話の大部分を占めることとなり、本当に描きたいことが描けなくなってしまう。
つまるところ、これらは”お約束”であり、いちいち突っ込むのは野暮というものだ。ご都合主義だって全然構わない。だってフィクションなのだから。
有馬かなが葬式で暴れたシーンも同様だ。「非常識だ!」「TPOわきまえろ!」などといった批判が殺到したが、このような指摘は本来チャンチャラおかしいはずである。葬式が大揉めになるなんて、ドラマなどではお約束。(何なら実際の葬式でもよくあるらしい。)あのシーンはそのように読むものではないことは明白だ。そもそもフィクションなんだから、非常識が起こることこそが常識だろう。
この他にも「そこに突っ込むの?!」と突っ込みに突っ込みを入れたくなるような批判が多々見受けられるのだ。
いよいよ眠りの小五郎の推理が始まる!と言う時に「麻酔?!免許は?!」「いやいや絶対コナンが喋ってるって気づかれるだろ!」「こんなトリック現実では実現不可能だ!」なんて口を出す人はいないだろう。(いないとは言っていない)
夢の国にやってきて「魔法とかwww電気で動いているに決まっているだろwww」「あんなのキグルミじゃんwww」なんて嘲笑する人はいないだろう。(いないとは言っていない)
この『空気の読めない突っ込み』に対し、当然のことながら反論の声も多い。
しかし、だ。そもそも、僕達は本来フィクションへの向き合い方を知っているはずである。フィクションの"嘘"を許容し、都合の悪い部分は読み飛ばし、その上で楽しむべきものだと理解しているはずである。
では何故、【推しの子】最終章に関してのみ、それが出来なくなってしまったのか?
●1.2 裏切られた読者の期待
上記に挙げた例の他にも、【推しの子】最終章への批判は多い。ただ、『話の畳み方が下手』『赤坂アカは才能が無い』等、何かそれっぽい単語を念仏のように繰り返すだけで、具体性に欠ける意見も多く目につく。
ではどんな展開であれば『話の畳み方が上手い』のか?どうあれば『才能がある』と評価されるのか?
色々とご意見はあるだろうが、究極的に言ってしまえば、自分の望んでいた展開にならなかったから、それに尽きるのではないだろうか?
整理のつかない気持ちが先走って、わかりやすい言葉に出力されているだけではないだろうか?
もっとカミキヒカルの狂気が見たかった。もっとカミキヒカルVSアクアの対決が見たかった。アクアに生きていてほしかった。もっとこういう展開になってほしかった。
そのように思うのは読者として極々自然なことだ。確かに最終章が比較的あっさり終わってしまった感は否めない。最終回に至ってはほぼソードマスターヤマトである。だが前回でも触れたように、そも【推しの子】は非常に簡素なストーリーラインで進む作品であり、であれば最終章も簡素に終わったとしても不思議は無い。(僕が最終章を比較的すんなり受け入れられたのもこの認識だったため)
どれほど不平不満を述べたところで、作品は作者のものである以上、所詮は読者の勝手な願望に過ぎない。
でも、そうは言っても簡単に認められないのが人情だ。作品に対する期待が高ければ尚更である。このモヤモヤ、不満、憤りを吐き出さないと気が済まない。何かにぶつけないと気が済まない。
こういった感情は往々にして『そういえばアレも気に入らなかった!』『これも気に食わなかった!』と、その感情を肯定する後付の言い訳として口から飛び出てしまう。『周囲の大人達が無能すぎる』『有馬かなが不快』『話の畳み方が下手』『赤坂アカは才能が無い』…etc.
突き詰めていくと、その裏にあるのは『信じていたのに、期待していたのに、裏切られた』という感情ではないだろうか?
先に挙げたような批判の多くは、自分の思い通りの展開になっていたなら、何も考えずに読み飛ばしていたような、そんな些細なものだったのではないだろうか?
●2 "有馬かな"という嫌われ役
【推しの子】では、しばしば登場人物に対する激しい批判や中傷が巻き起こる。特に有馬かなへのそれは目に余るものがあるが、何故彼女ばかり叩かれるのか?
それは、有馬かなというキャラクターが魅力的過ぎたからではないかと考える。
元々【推しの子】はキャラクターの魅力が際立った作品だ。本編を読んでいないであろう子供達からも多大な支持を集めているのも、ひとえにキャラクターの力と言えるだろう。
(最近だと『ちいかわ』あたりが近いか?アレも本編を知らずにキャラクター性だけでファンになる人が少なくない。むしろ本編が二次創作だと疑われることすらある始末だ。)
だがその中でも、有馬かなのリアリティは他のキャラクターとは一次元上にあると感じる。
断っておくと、僕は断然アクあか派である。その上で言わせて貰えば、多くの矛盾を抱えながらもがむしゃらに生きる、等身大の、年相応の少女こそが有馬かなであり、眩しいまでの彼女の魅力だ。
面倒で、ストイックで、情熱的で、気遣いで、友人思いで…。ここではこれ以上書かない。本編に沢山描いてあるからね。
どうでもいいようなキャラクターや中身の薄いキャラクターなら、何をやったところで批判すら起こらない。怒りも、悲しみも、そのキャラクターのリアリティに引き込まれるからこそ起こるものだ。
『嫌いは好きの裏返し』という言葉があるが、有馬かなへの批判は、ある種の好意の裏返しではないだろうか?意識的にせよ無意識的にせよ、彼女の持つリアルな人間性に共感しているからこそ苛立ちも覚える、とは考えられないだろうか?
実際、彼女への批判は同族嫌悪や共感性羞恥も多分に含まれているのではないかと睨んでいる。
その真骨頂は、大炎上した葬式のシーンであろう。
兎にも角にも、【推しの子】への批判は、同時に、それだけ魅力的な作品だという証左になっていると考える。
●余談:僕達は劣化したのか?物言う消費者達
完全な余談だが、【推しの子】に批判が集まる理由に、もうひとつの可能性を考えている。
以下は、東映で長年ヒーロー物を手掛けてきた名プロデューサー、白倉伸一郎氏のインタビュー記事だ。
一部を抜粋する。
どうも、アメコミのような『正義の味方が悪の手先をスポポポポーン!!!』といったわかりやすい勧善懲悪物しか、視聴者に受け入れられなくなりつつあるようだ。
このような傾向は僕自身も感じている。単純な展開じゃないと受け入れられない、とか。1から100まで全て説明しなければ理解されない、とか。少しでも難しい話はNG、とか。
先日地上波で『ゴジラ-1.0』が放送されたのだが、あれだけ原爆のメタファーを盛り込み、多くのメッセージ性を詰め込んだはずの本作に対して「原爆について何も言及しない、どこを向いているのかわからない」といった批判が寄せられ一部で話題になっていた。
嘘だろ?と思うが、残念ながらホントの話である。
『読解力』と言ってよいのか『国語力』と言ってよいのか。兎も角、ストーリーを読み解けない、人の気持がわからない、といった首を傾げるような意見が、最近やたら目につくのは気のせいだろうか?
加えて、何やら世の中、何でもかんでも『最短・最速・最善』を是とするようになっていないだろうか?まるで攻略本に従って作業の如くゲームを進めるように、"正解"以外を受け付けなくなってはいないだろうか?
人間は間違えるものだ。当然、創作物の中でだって人間は間違える。ましてや子供なら尚更だ。
間違いや葛藤、そこからの成長などを描くのが創作物の醍醐味とも言える。
しかし近年、読者が間違いを受け付けなくなっている。例えフィクションの世界であろうと、例え子供だろうと、間違うことは許さない。徹底的に糾弾しなければ気がすまない。そんな息苦しい世の中になってはいないだろうか?
何故こんなことになったのか、無学な自分には結論が出せない。オタク文化の一般化で、これまでとは違う客層が創作物に触れる機会が増えたのか?SNSの発達で、今まで届かなかった声が届くようになったのか?最近何かと話題の発達障害とやらなのか?コスパ・タイパが求められる世の中で、人々の頭と心に余裕がなくなっているのか?
『お客様は神様だ!』ではないけれど、このような状態での物言う読者、物言うファンの存在は、ともすると自由な創作活動を阻害してしまわないだいなろうか。
いずれにしても、【推しの子】でわずか十代の少年少女達に殺到する罵詈雑言に、不安を抱かずにはいられない。どうか杞憂でありますように。
余談終わり。
◆フィクションの世界に取り込まれる読者達
●嘘を信じさせる"手"
前章でダラダラと書き綴ったが、まとめると以下の通り。
【推しの子】への批判は、期待の裏返しではないか?
【推しの子】への批判は、それだけ魅力的な作品であることの証左ではないか?
何故こんなことが起こったのだろう?
【推しの子】には『嘘つきの目』というものが登場する。星野アイ、カミキヒカルらが持つ『人を騙すのが得意な目』『嘘を真実だと思わせる力』。この力を持って、星野アイはトップアイドルへと成り上がり、カミキヒカルは怪物へと成り果てた。
人々は星野アイに熱狂し、崇拝し、理想を押し付けた。ただの普通の女の子が、正しく偶像と化したのである。
そして、勝手に期待して、勝手に失望した者は、彼女に殺意を向けた。
この構図は、星野アイをそのまま【推しの子】に置き換えても成立する。
【推しの子】に熱狂する読者達の姿は、星野アイのファンの姿と重なる。
【推しの子】に理想を描き、理想と違ったからといって否定する読者の姿は、ニノやリョースケそのものだ。
僕達が作中の大衆と強烈にダブって見える。
前回『【推しの子】とは"星野アイ"の擬漫画化である』と述べたが、最終話を迎え、この説がより強化されたと感じている。
星野アイは問題児である。コミニュケーションが苦手で、嘘つきで、非常識で、どこにでもいる女の子である。
【推しの子】は復讐譚である。1話からいきなりさりなが死ぬ。ゴローが死ぬ。そして、アイも死ぬ。初めからドロドロのお話である。
でも、輝くものがあったから、人々を魅了した。人々を狂わせた。
批判も中傷も、それだけフィクションという"嘘"を信じ、嘘を"愛"し、感情移入しているからこそ起こるのではないだろうか。
何せ、ネタバレされたからといって暴行事件が起きるほどである。
それを可能にしたのは、赤坂アカ・横槍メンゴ両先生の持つ『嘘を信じさせる"手"』だ。
思えば【推しの子】は、図らずも現実とリンクする作品だった。
リアリティ・ショーの問題を取り上げれば、現実でも同じようなことが起こる。漫画実写化の難しさを取り上げれば、やはり現実でも同じようなことが起こる。
作中であれだけ誹謗中傷の恐ろしさ、理想を押し付けることの悍ましさが描かれながら、読者達も全く同じように、誹謗中傷し、理想を押し付ける。
ニュースでその手の事件が取り上げられる度、僕達は義憤に駆られていたはずなのに。気に入らないことがあれば、結局同じことをしてしまう。そしてみっともなく言い訳をするのだ。いや、これは違う。これは誹謗中傷ではない。正当な"意見"だ。有馬かなが悪い。【推しの子】が悪い。赤坂アカが悪い。
【推しの子】は、僕達の偽善という”嘘”も、容赦なく暴いていく。
これまで月額980円を【推しの子】最新話を読むことだけに払ってきた甲斐があったというものだ。【推しの子】は読者の反応をも巻き込みリアルタイムで体験することで、より味が出る作品だったに違いない。
【推しの子】駄作派の方に向けて敢えて言葉を用意するなら『駄作でも良作だと信じさせたらな勝ち』といった具合だろうか。惚れたほうが負け、騙し通した方の勝ちである。
【推しの子】には、それくらいのパワーがあった。
結局のところ【推しの子】は徹頭徹尾『嘘と愛』の物語だったのではないだろうか。一見歪にも見える積み木の塔をどかしていけば、その芯には巨大な大木がそびえ立っている。その木はフィクションの殻をブチ破り、現実世界まで枝葉を広げていった。
ちょうど【ダンガンロンパV3】の最後に、キーボがフィクションの天井を破壊したように。思えば劇中劇が多かったのも、そういうことだったのかもしれない。僕達もまた『推しの子』の世界の登場人物になったかのようだ。
◆描きたいものを描いていく
本音を言えば、僕もアクア生存のハッピーエンドが見たかった。でもそれは僕の勝手な我儘である。作品は作者のものであり、作者が自由に描くべきなのは言うまでもない。キャラクターを生かすも殺すも作者次第。だが、それを貫き通せる人がどれだけいるだろう?
多くの作品では、本来死ぬはずだったキャラクターに人気がでた場合、ストーリーを変更してそのキャラクターを生存させるたりする。よく言えば臨機応変に、読者の期待に応えて。悪く言えばビビって、本来描きたかったものを捻じ曲げてしまう。
しかし、アカ先生はビビらずにやりきった。編集もその決断を重んじた。素直に凄いと思う。もちろんそれは読者を軽視している、ということでは決してない。
昨今、人気が出たからといって下手に引き伸ばさず、作者の終わらせたいタイミングでスパッと終わる作品が増えているように思う。【鬼滅の刃】【僕のヒーローアカデミア】【呪術廻戦】そして【推しの子】。
一昔前であれば、鬼舞辻無惨やオール・フォー・ワンを上回る新たな敵が登場するなどして、いくらでも引き伸ばしたことだろう。故・鳥山明先生も、ドラゴンボールへの度重なるテコ入れや引き伸ばし要請で、しまいには漫画を描くのが嫌にさえなったという。(それでも面白い作品を描くのだから流石という他ないが)
もちろん、創作活動も先立つ物がなければ成り立たない。ファンサービスだって必要だ。それでも、やはり作品は作者のものだ。自由な創作こそが本邦をコンテンツ天国に押し上げた。
創作者が表現したいものを自由に表現できる環境に変わってきたのだとすれば、それは素直に喜ばしいことだと思う。
そも創作物なぞ、人気が出ずに打ち切り、引き伸ばしで失速して打ち切り、逆に一向に終わらない、なんてのが普通だ。”終わりを見られる”ことが如何に貴重なことか。
◆最後に
『Fate/Grand Order』という著名なソーシャルゲームに【禁忌降臨庭園セイレム】というシナリオがある。初となる時限開放式シナリオで謎めいたストーリーが展開され、プレイヤー達の関心と様々な考察を呼んだ。
しかし、期待と考察が異常に加熱していった結果、結末が拍子抜けであるとして炎上してしまった。後で通して読み返せば決してそんなことはなく、現在では普通に評価されているのだが、なまじ時限開放式にしてしまったことが裏目に出た形だ。(昨今の何でもかんでも「伏線ガー」「整合性ガー」となってしまう風潮もあっただろうが)
連載漫画でもしばしばこういったことが起こる。本誌派と単行本派で作品に対する印象がガラッと変わる、連載中は叩かれていた展開が、単行本が出る頃には落ち着いて読むことで再評価される、なんてことは茶飯事である。【推しの子】においても、2.5次元舞台編などはそれだったと聞く。
【推しの子】最終章パニックの原因のひとつは、ある意味で連載漫画の宿命だったのかもしれない。単行本になり、誹謗中傷ブームが去り、各々が気持ちの整理がついた頃、今一度最初から読み直してみれば、また違った印象を得られるかもしれない。
もっとも、本来コンテンツはここで記したようなメタフィクション的な楽しみ方をするものではない。ただの娯楽としてもっと気楽に称賛し、貶し、消費するのが正しい姿だろう。
我ながら捻くれた見方をしているのは自覚している。厨二病の戯言と読み飛ばしてください。
さて、ここまで飄々と書いてきたが、実のところ僕自身もアクアロス、【推しの子】ロスで結構凹んでいる。でも、落ち込んでばかりもいられない。何故なら、僕には他にも"推し"が沢山いるからだ。自分が凹んでいるからといって、彼ら彼女らへの"推し事"をサボるわけにはいかない。
救ってくれるのはいつだって推し。【推しの子】から学んだことだ。
これからも、沢山の推しを愛し、推しに愛されるように生きていきたい。
取り急ぎ、【推しの子】最終巻、小説版新刊、実写版、アニメ3期も待っている!
最後に改めて。
ここまで駄文にお付き合いいただいた方、ありがとうございました。
赤坂アカ先生、横槍メンゴ先生、全ての関係者の皆々様。長期間の連載、お疲れ様でした。そして、素敵な作品をありがとうございました。
了。