【推しの子】騒動は令和の『エヴァンゲリオン』騒動だったのか?

最終16巻、二人のエチュード読了記念。

TV版エヴァ放映当時自分まだ子供で、最終話前後の炎上が如何様なものであったかは認知していない。ただ、聞くところによるとどうも昨今の【推しの子】騒動に似てるなぁと感じたため、思いついたことを書き連ねていく。

まぁたエヴァかよ…」とお思いの方、ごもっともです。なんでもかんでもエヴァに結びつけるのは、我々厄介ヲタク共が四半世紀に渡り行ってきた糞文化であることは重々承知。【推しの子】と『エヴァンゲリオン』では規模も内容も方向性も全く違うことももちろん理解している。

その上で「結局このマンガは何だったんだよ!!!」という声に対し、「だいたいこんな感じだったのでは?」と説明するのにこれほどわかりやすい例もないので、利用させていただくことにする。わからない時は、とりあえずわかる何かに置き換えることで、取っ掛かりになるかもしれないからだ。メモ書き程度の拙文ではあるが、解釈の一助になれば幸いである。
尚、ここではいわゆるTV版・旧劇エヴァと新劇エヴァを区別せず、両方を扱うので悪しからず。

3行でまとめると…

  • 伏線回収されないとモヤモヤするよね。納得の行く終わり方じゃないとムカつくよね

  • でもそういうもんだよね。大切なのはきっとそこじゃないよね

  • 「わからない」「納得いかない」で止まっちゃうのももったいないよね


◆【推しの子】と『エヴァンゲリオン』の共通点、雑まとめ

  • 魅力的なキャラクターや興味を引く設定などもあって、社会現象と呼べるほどにヒットする

  • アニメ主題歌が有名になる

  • 当初は普通の?アニメ/マンガ作品だと思われていた

  • 終盤、実はそうではなかったことが認識される

  • 最終話が期待外れ、意味不明で大荒れ

  • 伏線丸投げ、詳細説明なし

  • 劇場版/書き下ろし予告。伏線回収に一抹の期待

  • 結局謎は謎のままで更に叩かれる

◆ツクヨミ = 真希波・マリ・イラストリアス

前回、ツクヨミはアクアを看取る者として設定されたイレギュラーキャラ、デウス・エクス・マキナであったと考察した。その補足となる。

新劇エヴァで同じ役割を持っていたと思しいのが、真希波・マリ・イラストリアスであろう。作中において、マリは明らかに異質、イレギュラーなキャラとして設定されている。

エヴァの登場人物はみな庵野監督によって生み出された彼の分身であり、言うまでもなくエヴァ世界の住人である。これに対し、マリは鶴巻監督の手による造形が大きいという。つまりはエヴァの世界の外からやってきたキャラクターと言える。作中では数少ないメタ視点(ゲンドウや冬月と同じ視点)を持つという点でも、やはり特異性が際立つ。

だからこそ、シン・エヴァンゲリオンのラスト、シンジをマイナス宇宙から救い出し、宇部新川駅から現実世界へと連れ出すのがマリだったのではないか。エヴァ世界から卒業するシンジに寄り添うことは、エヴァ世界の住人であるレイやアスカには不可能。外から来たイレギュラーであるマリにしかできない、重要な役割だったのではないか。

【推しの子】に当てはめてみよう。アクアは現世から卒業し、死という"無の世界"へと旅立つ。たった一人で、孤独に苛まれながら。そんなアクアを看取ることができる人は誰かいないのか?
それこそが、ツクヨミの役割だったのではないか。この世の理を超えた彼女だからこそ、今際のアクアを看取ることができたのではないか。

◆なぜ「【推しの子】は途中で失速した」と言われるのか

物語には"起承転結"と呼ばれる定番の構成がある。"起"は物語の起点、"承"は"起"を受け継いでそれを膨らませ、"転"で転調、大きく揺れ動いて”結”への助走となり、そして”結”で結末を迎える。4コマ漫画から始まり、漫画や小説、ドラマ、映画など、およそあらゆる作品がこの起承転結で分解できるだろう。
楽曲に例えるなら、"起"=Aメロ1"承"=Aメロ2"転"=Bメロ"結"=サビといったところか。

新劇エヴァシリーズに当てはめると、『序』『破』『Q』『シン・エヴァンゲリオン』の各作がそれぞれ内部で起承転結を行いながら、同時にそれぞれがシリーズ全体の起承転結にもなっている。
『序』="起"『破』="承"『Q』="転"『シン・エヴァンゲリオン』="結"と置くことができるだろう。

さて、その性質上"起"は掴み、"承"は話しの盛り上げどころなので、作品の雰囲気も上がり調子となる。しかし、"転"は"結"に向けた盛り下げどころとなるため、陰鬱な形になることもしばしば。
そして肝心の"結"であるが…これは本当に人それぞれである。万人に納得の行く結末などない以上、どうしても評価はまちまちになる。例え名作と呼ばれる作品であっても、結末に納得いかず駄作のレッテルを貼る人は必ず存在する。

例えばカップリング厨などと呼ばれる人々にとっては、とにかく自分が信仰するカップルが成立するか否かが全てであり、それ以外の結末は全てNGになってしまう。
「なんでナルトとサクラがくっつかないんだ!」「ルキアが恋次なんかと結婚するなんて!」といった声は最早懐かしい。

他にも『新劇の巨人』であれば「巨人化の謎が説明されてない!」「丸投げだ!」「ご都合主義エンドだ!」等々…あらゆる作品で、批判はつきものである。

新劇エヴァはどうだったか。『序』="起"はTV版を踏襲しつつも、正に生まれ変わった新時代のエヴァンゲリオンと呼べる出来栄えであり、観客を大いに沸かせた。『破』="承"は大きくアレンジを加えられつつも、非常にカタルシスの強い作風になっており、観客のボルテージも最高潮に押し上げられた。
その流れでの『Q』="転"公開。人々は大いに期待し、胸踊らせながら劇場へと足を運んだ。「上映後にみんなで『残酷な天使のテーゼ』を歌おう!」などという痛々しい呼びかけがおこるほどであった。

結果、劇場は阿鼻叫喚に包まれた。評価は荒れに荒れ、案の定庵野監督への誹謗中傷や人格否定まで行われることになる。

そして『シン・エヴァンゲリオン』="結"。視聴後の観客は、ただただ放心するばかりだった。皆SNSで口々に「ああ、エヴァンゲリオンは終わったんだ。」と呟くばかりだった。整合性がどうとか、伏線がどうとか、設定がどうとか、そんなことはどうでもいい。長い長い物語を読み終えた満足感と一抹の寂しさ。卒業式。少なくとも自分はそのように感じていた。

本題。【推しの子】に"起承転結"を当てはめて見よう。各章の中で起承転結が出来上がっているのは言うまでもないが、作品全体を通しても、やはり起承転結が見て取れる。およそ4巻ずつ、アニメ1期に相当する第4章「ファーストステージ編」までが"起"、アニメ2期に相当する第5章「2.5次元舞台編」から第6章「プライベート編」までが"承"、第7章「中堅編」から第8章「スキャンダル編」までが"転"、第9章「映画編」から最終章までが"結"である。

表題の通り、よく「中堅編」~「スキャンダル編」に対し、「失速した」「推しの子はプライベート編まで」あるいは「2.5次元舞台編まで」などと評されることが多いが、自分はこの評価は正しくないと考える。起承転結の"転"に当たる部分なのだから、盛り下がるのはある意味当然と言える。(個人的には普通に面白かったがそれはそれ。個人の感想です。)

では"結"は?それは人それぞれ。自分が第一に感じたことは「ああ、【推しの子】は終わったんだ。」という、長い長い物語を読み終えた満足感と一抹の寂しさ。卒業式だった。

無論、僕達が常に面白い作品、最後にはカタルシスが得られる作品、そういったものを求めるのは極々当たり前のことである。
しかし、作品の途中で盛り下がるのも、結末が納得いかないことも、時に避けては通れない道ではないだろうか。

◆伏線・設定・整合性

エヴァンゲリオンのファンを長年に渡って悩ませたことがある。それは作中に登場した様々な謎に対して説明がなかった、という点だ。アダムやリリスとはなんだったのか?人類補完計画とは?死海文書には何が書かれていたのか?あのキャラクターのこの行動の意味とは?…
加えて、脚本の途中変更や、庵野監督が精神的に追い詰められたことなどもあって、話の整合性にも破綻が生じ、より複雑化してしまったことは否めない。
後年発売されたゲームなどである程度の裏設定は開示され、現在では一定の解釈が為されているものの、それでも難解極まることは間違いないだろう。

新劇場版シリーズに至っても同じである。TV版・旧劇場版とは異なる設定、新たなる用語が湯水のように溢れ出したにもかかわらず、それらに対する説明は一切なかった。アダムスの器とは?ゴルゴダオブジェクトとは?槍とは?…

何故説明がなかったのか。結論から言ってしまえば、どうでもいいからであろう。物語において、設定とはあくまでフレーバーテキストのようなものであり、重要なのはそこではない。何故この兵器は人型なのか?魔法とはなんなのか?どういう原理で動いているのか?それっぽい説明がなされる場合もあるが、やはりそれらは舞台装置に過ぎず、本質ではないのである。

『新劇の巨人』のハルキゲニアの正体は?巨人化とは?どういう原理で巨人になるのか?重要なのはそこではない。
真希波・マリ・イラストリアスとは何者なのか?イスカリオテのマリアとは?そんなことはどうでもいい。
ツクヨミとは何者なのか?神とは?そんなことはどうでもいい。

では、何が重要なのか?言われずとも、僕達は既に知っているはずである。

しかしながら、どうしても僕達は"伏線"とか"整合性"とか"説明"とか、そういったものに執着しがちだ。その手のYouTubeやまとめサイトを開けば、「〇〇の伏線!」「〇〇考察!」といった文言が飛び交っている。実際、伏線を探すのは楽しい。考察するのは楽しい。陰謀論とやらがまことしやかに信じられているのも、僕達が「謎を暴く」「繋がりを見つける」といった行為に快感を覚える本能があるからだろう。(そもそも"伏線"という言葉が誤用のまま乱用されているという指摘もあるが…)

ただ、何を伏線にするのか、どこまで説明するのか、整合性を保つのか。それら”フレーバーテキスト”は、作者が決めることだ。
伏線が放置された(ように見える)まま、説明がない(ように見える)まま、終わってしまうもどかしさ。気持ちはよーく分かるが、重要なのはそこではないのである。

(…一部で言われているほど【推しの子】は破綻してなくない?という話はここでは置いておく)

◆物語の階層構造

自分は過去に、【推しの子】は一見単純なストーリーに見える第一層と、複雑な第二層が存在するのでは?と考察した。

まぁ、要するにその作品が本当に伝えたかったこと、テーマであり、多くの創作物にみられるものだ。それは一見しただけではわからない場合も多い。ここでは便宜上第一層、第二層などと呼んでいるに過ぎない。

エヴァンゲリオンも、当初は普通のロボットアニメかと思われていたが、実際には大きく異なることが判明。今日まで語り草となる。
その全容を把握することは極めて困難だ。まるでエヴァの生みの親、庵野監督の内面、その深い深い場所まで飛び込んでいくような感覚。知識も洞察も精神力も総動員する作業になるだろう。

さておき、物語をどのように"消費"するかも人それぞれ。気軽に作品を楽しみたい。満足感やカタルシスを得られる作品のみを読みたい。第一層だけをサラッと楽しめればOK。これらもまた然りである。
特に、何事も最短・最速・最善が求められる昨今、この傾向は顕著になりつつあるのかもしれない。僕達は忙しい。ひとつの作品に割ける時間も、脳の容量も、精神力も、無限ではない。とっとと別の作品を探して消費するのも良いだろう。
当然ながら、「つまらない」「意味がわからない」「駄作」「作者は糞」といった評価もまた然り。各々が抱いた感想なのだから、誰になんと言われようと、それは神聖不可侵であるべきだ。

ただ、もったいないな、とは思う。ある意味で、それは思考停止に他ならないからだ。「なぜこうなったのだろう」「これにはどんな意味があるのだろう」。そうして第二層に潜っていくことで、新たな発見があるのではないか。世界が広がっていくのではないか。
勿論、伏線や整合性をチェックしろ、重箱の隅をつつけ、陰謀論に目覚めろ、といった意味ではない。念の為。

◆余談:【推しの子】最終章は破綻したのか?

完全に個人的な妄想なので余談として。
「【推しの子】の最終章は破綻した」「赤坂アカは話を畳むのが下手」「投げっぱなしエンド」等の指摘について。もしかすると逆なのでは?アカ先生が本腰を入れて話を畳もうとしたからこそ、あのエンディングだったのではないか?と思い立った次第。

言うほど破綻してなくね?いや無茶苦茶だ!といった問答以前に、なんというか、作風が変わった、あるいは切り変わったのではないか?
例えるなら旧劇エヴァの人類補完計画発動後、あるいは新劇エヴァのマイナス宇宙突入後。世界観がガラリと変わるので一見訳がわからなくなるが、要は全てに決着をつけ(特に碇シンジが自分自身の心に決着をつけ)、話を畳むパートだ。それまでの現実世界での出来事は全て前座だったと言わんばかりに、物語は急速に結論へと進んでいく。

【推しの子】最終章は、シームレスにマイナス宇宙へ移行しているのでわかりづらいにも程があるものの、同じようにアクアが全て(特に自分自身の心)に決着をつけ、話を畳むためのパートに過ぎなかったのではないか?
ただ、作風が変わってしまったから、違和感を生んでしまったのでは無いか?

あるいは、『エヴァンゲリオン』は人類補完計画発動後、もしくはマイナス宇宙突入後こそが本当の『エヴァンゲリオン』だったのかもしれない。
【推しの子】は最終章こそが本当の【推しの子】だったのかもしれない。

余談終わり。



以上。明日は実写劇場版を見に行くぞ!

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