3.11
あれから10年。ニュースやSNSでは記事も多い。今年も黙祷をささげた。
実際 東日本・九州両震災からも時間が経ってしまったが復興の進み具合は理想とするところとは離れていると感じる。
それでも、不死鳥の如き復活を信じて同じ時代を生きる一人として共に事を前に進めていきたいと思っている。
震災当日の事はまだ覚えている。
あの時私は自分の仕事と別に警備会社に所属しており、その日は交通誘導担当の警備員として建築の現場に立っていた。中野の哲学堂の近くと言ったら都内在住・在勤の方には分かりやすいと思う。
2010年に日本に帰国して、丁度1年経った位の時期で。
本業はさておき警備というのも常に人材不足で現場も途切れず忙しいがなかなか稼げており、
昼→夜→昼の現場ぶっ通しだとか、上司が嫌なやつだとか、そんな等身大の悩みはあれど大きな不満もなく。
資金を貯めてまた居た国に戻ろうか、それとも別の国に行ってみようか。そんなことを考えながら仕事と副業に精を出す日々だった。
ちょうど午後の休憩で近くの公園のトイレに立ち寄った時。
どうにも足がもつれ「足に来てんなぁ ここんところ連勤続きだしなぁ つーかこの後夜勤だよ・・・」などと独り言ち用を済ませ外に出たら公園にいる人が互いに顔を見合わせている。
そこで地震だと気づき足早に現場に戻ろうとすると近隣の家から続々人が顔を出して来、警備員の制服もあり声をかけてくる。
時間帯もあり高齢の方が多い。
やはり不安からであろう、口数も多い。公園まで案内などしながら周囲を改めて見渡すと瓦が落ちたりしている家を確認したのを覚えている。
その後は現場で交通誘導を既定の時刻、確か17時だったと思う、まで行った。覚えているのはやけに冷たい風が吹いたのと、消防車であろうサイレンの音が遠く鳴り続けていた事。
撤収する折会社に連絡すると回線が不通になっている。仕方がないので新井薬師前駅まで移動すると電車が動いていないと張り紙。これまた仕方がないので中野駅まで歩く事にした。
駅に近づくたびに時間帯にしては人がやけに多く車も渋滞していて、なぜか誘導を頼まれるので乞われるままに誘導というか簡単な交通整理みたいなことをしたりしつつ(何だか様子がおかしいな・・・)と訝しみながら歩を進めた。
そう。何の話をしているのかというと、この時点で私は震災の情報を全く得ておらず「さっきのヤツは何かちょっと大きい地震が起きてたのかな」くらいの認識で、勿論渋滞や人だかりがそれと関係したものとも思っていなかったのだった。
その認識が覆されたのが中野駅で電車が動いていないという張り紙と駅員さんの広報を見た折、そして駅の近くの電気屋さんのディスプレイのテレビで津波の映像を眼にした時。
とんでもない事になっているな、と。
そこからはとりあえず家なり会社なり拠点に戻らないと話にならないと判断して都心部に向かおうと同僚がいる施設に向かおうと徒歩で新宿に向かう。
道すがらFACEBOOKやMIXIで生存報告ややり取りしつつ情報を集め、声をかけられて誘導したり道や渋滞状況を聞かれたりしつつ中野坂上を過ぎ新宿に入る。ここら辺になるともう車が渋滞で全然動いておらず人の数も非常に多い。
「電車動いてませーん!朝まで開けていますので電車動くまでどうぞー!」という居酒屋の呼びかけに少し笑い、念のために携帯用の充電器を買おうと入ったコンビニでモノが全然ない伽藍堂の棚と張り紙を見て戦慄する。
防災用のヘルメットを被ったOLさんやサラリーマンに学生が誰ともなく指示があるわけでもなく軍隊の如く同じ歩調で一方向に歩いていくのは(日本人ヤベェ)と思った。そして気づくと自分もその行進の一部分になっていた。私も日本人だったのだ。
畢竟、東京はあの時整然としていた。落下物とかガラス破損みたいなモノはあったが盗難や犯罪行為・暴動なんかも聞かず。日本すげぇなぁと思ったのは本音だ。
新宿に同僚がおらず、更に別の同僚と合流しようと四谷に向かう・・・はずが間違って靖国通りに出てしまう。
道を引き返そうか迷ったが九段~神保町周辺なら土地勘もあり稼動している現場もいくつか知っていたのでそちらの方向に歩く。
市ヶ谷を過ぎたあたりで半蔵門線が復旧するという話を耳にし、錦糸町まで出られれば会社のある亀戸まで歩けると判断し九段下に出る。帰宅困難者であろう制服を着た女子中高生が駅の階段に多数座り込んでいたのを覚えている。
改札を抜けると先頭車両がボンベの様な弾丸のような見慣れない電車がホームにつけており乗車。なかはほとんど人がいない。すぐに発車した。
錦糸町から会社まで歩くと明治通りの交差点で支店長が人員整理をしている。会社に行って荷物を置いて簡単な報告をしてこちらも人員整理に出る。
道路に人があふれるのを並ぶよう声掛けしたり、八つ当たりしてくるおっさんの応対したり、泣いてる子供に飴ちゃんあげたり。12時頃にはある程度マシになり、キリが良いので撤収。
そのまま会社で寝て、翌日同じ現場にトンボ帰りした。
結局自宅に帰ったのは震災から3日後。倒壊した本だなやベッドに突き刺さった居合刀を片付けて余震の中泥のように眠ったのも覚えている。
あの震災で思うところはやはり多くて、それはその後の自分の行動にも今の自分の在り方に大きく影響している。
そして、その影響は私だけではなく日本人や日本社会についても多々観られる。
それについては別に書こうと思う。
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