わたしは何を表現してもいい
今日は11月11日。
はじまりの数字「1」が並ぶあたらしい門出の日。
ひとつサヨナラしようと思うことがある。
サヨナラは、さようであるならば~の前提言葉。
「にじ」へのこだわり。
子どものとき虹の出ているところを探して迷子になった・・・
というのは、わたしの実父の思い出話。
父は色々おもしろい話をいくつも持っていて聞かせてくれたけど、
なかでもこのエピソードはわたしにとって印象深く
そんなピュアな子どもっているの!?という驚きと
憧れもあったのかもしれないなぁと、今では思う。
(父、健在です!!!)
いつからか、自分でお話やら創作するようになり、
高校時代の親友と「tuck chick born」というユニットを組んで
ギャラリーで展覧会をしたりして、
それがきっかけで詩画集も出版した。順風満帆だ!と思ってた。
例え版元の出版社が、その年末に倒産しても、不安はなかった。
むしろエネルギーに代えていたところがあった。
その直後、相方は子どもを授かり、出産をしたのだけど
今思い返すとわたしは、彼女の苦労も顧みず、
ユニットとしての創作と発表を無理やり続けた。
出歩きにくくなった彼女に代わって例えばグループ展の搬入をしたり
ユニットを代表して外に出続けたりもしたから、
おもえばこの頃、わたしは大きく勘違いしてもいた。
それを、わたし自身が終えられたのは、失恋。
子どもの成長と共により自由な制作時間の確保やらが難しくなった相方と、
未来を恋人の存在を前提で思い描いていた幼いわたし。
すでに無理やりな二人三脚を相方に強いてそれでも歩いていたわたしは、
歩けなくなった。
でも、わたしは、前を向いていた。
次の展示は、「虹の出てるところ」だと言って、
長い制作期間に入る、ということにした。
誰のための宣言だったのか、分からないけどね。
「虹の出てるところ」
それは、つまり毎日の暮らしのあるところ。
嘘じゃないし、自分で掲げたコンセプトなり作品に、
事実わたしは導かれてここまでやってきたと思う。
でも、苦しかった。
自分でどんどんと、自分を追いこんできてしまった。
こだわりや、気負いや、ジャッジや、理想や、恥ずかしさや、計算や、
とにかく色々なものも、大きく太くなっていった歩みの中、
tuck chick born活動期やそれ以前のわたし本来にはなかった
「努力」が、続けてきたことが、今、わたしの目の前に、
『おはなし ごほん』を見せてくれている。それも事実。
『おはなし ごほん』には、虹への想いも一部込められている。
ここではないどこか・・・ではなくて
今ここに全部があるよ・・・のメッセージ。
でも、認めようと思う。
わたしもっと、旅もしたかったし、自由でもよかったなって。
だから、なんていうのかな・・・
それだけじゃないよっていう意味で、
にじへのこだわりを、この出版と共に、サヨナラします。
それにすばらしいのは、編集者さんと画家さんのおかげで、
この本は現実に、そのメッセージをすでに、超えてる。
わたしを次の旅に向けてくれてる。
(本、手に取ったら背表紙まで見てみてね!!!)
にじは、アーチ状なだけじゃないものね。
まん丸のにじだって、空にはかかる。
にじのふもとを探して迷子になった少年に伝えよう、
君はきっと、にじの中にいるんだよ。
どこにいっても大丈夫、どこを目指しても大丈夫。
迷子になったような気分さえ、大きな大きなマルの中。
君は君でいい。
わたしはわたしでいい。
わたしは何を表現してもいい。
繋がっているtaamiさんがFBで書かれていた言葉です。
すっごく、響きました。それをここにシェアします。
わたしは何を表現してもいい!