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私を見て、褒めて認めて愛してほしい
自分を嫌がったり低い評価をしたりした人に対して、異常に固執する。
挽回したい、見返したい、あなたが評価した私は間違っていて、私は本当はあなたが思っているような人間ではないと、相手に思い知らせたくなるのだ。
それはそれはとてつもない激情で、時に、相手本人に矢が向けられることもある。
その執着は我ながら恐ろしくも鬱陶しくも感じる。
「見て見て!私、できるようになったよ!すごいでしょ!」
と、まるで逆上がりができた子どものように、しつこくしつこく相手に認めさせようとする。
これが逆上がりができた子どもなら、思いっきり褒めるのだが、私は一応成人した社会人だ。
会社の中や友人関係でコレをやるのである。
相手からしたら鬱陶しい以外の何物でもない。
しかし、これは私が親からほとんど褒めてもらえなかった、認めてもらえなかったからである。
子どもの頃に埋まらなかった心の穴を、大人になって無理やり埋めようとしている。
The愛着障害!である。
とにかく誰かに認めてもらいたいから、仕事でもバイトでも、Twitterでも数字に固執した。
数字は成果がわかりやすい。
数字だけではない。
獲得した給与にも固執した。
そのため、初めは別の目的で始めたTwitterも、いつしかフォロワー獲得に躍起になり、有益な情報を発信せねば……ギブギブギブせねば……と本来の目的から大きく離れ、疲れ切ってしまったのである。
フォロワー数が3000を超える頃には、そこまで気にならなくなったように思えた。
しかし、フォロワー数に対してイイネやインプレッションが少ないだとか、そういう数字が気になり始めるとダメだ。
今度はバズっている人のフォロワー数を見て、自分よりフォロワー数が少ないのに……と変な比較をして落ち込むことが増えた。
完全に目的と手段がとっちらかっている状態。
諸事情でいくつかアカウントを消して、少しTwitterから離れるようにはしている。
それでもTwitterを開く度に、未だにフォロワーの増減は気になる。
noteも危うい橋を渡っているなという自覚がある。
記念すべき初投稿で、スキを3つもらえた。
これはとても嬉しい。
アカウント作ったばかり、誰にも教えていない、誰とも繋がっていない、SNSにも繋いでいない、陸の孤島のようなアカウントの投稿。
まさか3つももらえるとは思わなかった。
そもそもこのnoteは私の「チラ裏」のつもりで書いている。
誰に認められるでもなく、ただただ心の発露のままに書き散らす。
でも、どこかの誰かに読んでもらえたら、少しは昇華されるような気がしている。
そこを履き違えないように、これからも心して書いていこう。
アクセス数やスキは気になり続けるだろう。
でも、私は敢えて誰もフォローせず、SNSにも繋がずにいることでアクセス数の少なさの言い訳にしようと思う。
見知らぬ誰かが、偶然私の文章を見つけてくれる───────
そんなおとぎ話に近い期待を、今日も抱いている。