遠い昔の片想い
滅多に過去を振り返らない私が、昨日ひょんなことから、大学1年の夏休みに片想いをした男性を思い出し、検索してしまった。非常に珍しい名前なので、入力するだけで彼の情報がすぐに出てきた。今から4-5年前のヴィデオと写真を見て、40年以上前、私が大好きだったジャズピアニストBill Evansに似ていると思った面影が、彼に残っていて、思わず嬉しくなった。そんな嬉しさがペンを走らせている。
夏休みのプールのアルバイト
大学1年の夏休み、18歳の私は市営プールでアルバイトをしていた。彼とはそのアルバイト先で知り合った。当時男性は監視員で女性は受付、確か1時間ごとに泳いでいるお客さんを全員上げて、監視員は潜って水質検査や水底の点検などをしていた。彼はちょっと長めの髪に、Bill Evansのような黒縁のメガネをかけた寡黙な人で、あまり他の人ともお喋りをせず、目立たないタイプだった。彼が水に入るためにメガネを外すと、整った顔立ちが表れ、筋肉を感じさせないしなやかな体つきで、まるで魚のように泳ぐのがとても印象的だった。プールの営業終了後は、私達アルバイトは水泳が許可されてていたので、みんなが泳ぎ始め、男女のアルバイト達は自然に仲良くなって行った。
彼はジャズが大好きで自分でもベースを弾いており、付き合っている女性もいて、私とは好きなジャズの話ばかりしていた。ベースを弾く彼の指はとても長く綺麗で、カソリックの女子高から大学生になったばかりの私は、話すだけで楽しいというナイーブさで、自分の気持ちが、彼に見えないように必死に隠していた。
私を村上春樹のピーター・キャットに連れて行ってくれた彼
そんな彼が国分寺の南口にあった村上春樹さんのジャズバー「ピーター・キャット」に連れて行ってくれた。私は初めて彼に誘われた時、非常に驚き、またもしかして彼は私に女性として好意を持っているのかも?という、淡い期待に胸を膨らませた。18歳としては精一杯のお洒落をして、彼と2人で地下のジャズバーの階段を降りて行った時、私は大人の女性になったような気がした。
この写真は当時のピーター・キャットのマッチで「《村上春樹の世界》国分寺を歩く」の中に掲載されていたもの。ピーター・キャットの詳細は「《村上春樹の世界》国分寺を歩く」に書かれているし、ヴィデオで場所も特定できる。当時、春樹さんはまだ作家になる前で、奥さんの陽子さんがメインでお客の相手をして、春樹さんは隅の方でレコードをかけたり、グラスを拭いたりしていた。2人でカウンターに腰かけて、店内にかかるジャズのレコードについて話しながら、ベーシストであった彼は、ベースの弾き方や楽曲におけるベースの位置づけなど、ジャズに関する色んな話をしてくれた。
その後、彼は何度か私をピーター・キャットに連れて行ってくれたが、3回目か4回目の時「ちょっと用事があるので先に帰る」と言って帰ってしまった。残された私は、1人でカウンターに頬杖をついて、ポツンと座っていると、春樹さんが近寄って来た。「どうしたの?」と聞くので、「彼は先に帰ったの。彼にはガールフレンドがいて、多分今日彼女と約束があったんだと思う」と答えた。私があんまりがっくりしていたからだと思うが、春樹さんは「彼女のコトを知っていて、彼とここに来ているの? 自分の気持ちは彼に伝えたの?」と聞くので、「うん、知っている。とても彼女のいる人に自分から好きだなんて告白できない。」と答えた。春樹さんは「自分の気持ちに正直になって、素直に振舞ったほうがいい。ちょっと見ていたけど、君は無理をしていたよ」と言って、グラスを拭き始めた。
その後ピーター・キャットは千駄ヶ谷に移り、1979年春樹さんは『風の歌を聴け』で第22回群像新人文学賞受賞したが、私の大好きな国分寺のピーター・キャットは、煙のように消えてしまった。
PS: 因みに私の初めて書籍『ひさみをめぐる冒険』は、私の人生ですれ違った春樹さんと彼の書籍『羊をめぐる冒険』へのオマージュとして選んだタイトル。
パンドラの箱を開けてしまった
夏休みが終わりに近づき、市営プールのアルバイトもあと少しとなったが、ナイーブな私は、彼に自分の気持ちを打ち明けることもできず、ただ最後までプールの監視台で座っている彼の横顔を見て、ため息だけをついていた。その後は、私の大学時代、日本での社会人時代、米国移住、起業等々、とてもつもなく長い時が過ぎたが、あの夏休みのプールの片想いだけは、私の心に甘酸っぱくセンチメンタルな気分を残し続けた。
1995年シリコンバーに移住し、インターネットの勃興期にビジネスとマーケティングの海を泳ぎまくり、ソーシャルネットワークが日常化している中で、何故か、彼の検索だけはしなかった、いやしたくなかった。夏休みのプールの片想いは、私が40年以上前、パンドラの箱の中に入れて封印したもの。もし箱を開けたら、途端に、私のセンチメンタルな思い出が消えてしまうような気がしていた。
それが、昨日突然、ふいに、どうしても、彼のその後が知りたくなり、検索してしまった。
彼は変わっていなかった!いやもっと進化していた!
非常に珍しい名前(多分世界でただ1人だと思う)なので、検索するとすぐに情報が出てきた。私の世代では、マーケティング関連の人か著名人以外では、個人名だけで検索情報は上がってこないのが普通だが、彼は画像も含めてぱっと上がってきた。まず最初に驚いたことは、40年以上も経っているのに、彼には当時の面影が残っていたこと。通常シニアとなった男性は女性に比べて、容姿の変化が激しく、そのことが検索を避けてきた理由の1つでもあったけど、彼は変わっていなかった。髪はシルバーグレイとなり、Bill Evansのような黒縁のメガネではなく、フチなしのメガネをかけていたが、あの優しく真面目そうな瞳は相変わらずで、ソフトでゆっくりとした話し方も昔のままだった。
さらに驚いたことは、彼は大学卒業後教育者となり、日本及び海外の学校教育などに貢献し、長年子供達への環境教育の重要性を訴えてきたという。彼は或る対談で「ESDの視点を活かした環境教育によって、問題解決能力と環境保全意欲を高めることが持続可能な社会づくりのために必要である」と言っている。そう、彼は40年間、教育という社会の根幹を支える重要なシステムの現場で、環境問題と取り組み、色んな可能性を探っていたらしい。
私の生き方の1つの指針でもある「Sustainability(持続可能であること)」を、彼が教育で実践研究してきたことが分かり、改めてパンドラの箱を開けてよかったと痛感した。彼は物凄く進化していた。
太平洋でつながった、ブーメランのような縁
今回最も嬉しかったことは、2005年私が夫も含めた仲間達とSFからマウイまでセールボートで15日かけて太平洋半分航海(セーリング)した年の夏、彼は海外ボランティア活動の一環で、環境保護のために、ワシントン州の San Juan Islandで、オルカの生態研究に参加していたという事実(彼の報告書も閲覧できた)。太平洋の海を経由して、私の夏休みのプールの片想いは、ブーメランのように、ここでつながったような気がする。
彼は、多分私のことは覚えていないと思うけど、私は進化した彼とその活動を見て、物凄く嬉しく思い、ピーター・キャットで共有した2人の時を思い出し、彼に一言「ありがとう」だけを伝えたいと思う。
「ありがとう」