貧しい社会

 藤沢周平の市井ものが愛される理由の一つは、そこに共に生きる社会、相互扶助の社会があるからでしょう。子に去られた老婆も、親とはぐれた子供も、男やもめも一人暮らしの夜鷹も、見捨てられることがありません。

 宮本常一を読めば、これが小説世界のことではなく、現実の日本社会(特に庶民)の話だったことがしられます。日本は文字通り「親がなくとも子は育つ」社会でした。ところが、今は。

 入場料金を払わなければディズニーランドに入れないのだから、入学金を支払わないと学校に入れないのは当然。入学式への出席差し止めは仕方ない!?

 教育者ですらこのように公言する。商売やビジネスの世界に生きる人ならともかく、教育の専門家の口から出るのだから恐れ入ります。学校は商業施設ではないでしょう。先生はその従業員ではないし、校長は利潤を求める企業経営者ではない。

 現場にいる人たち、あるいは専門家からも、教育者としての基本的な認識、倫理観、義務感が失われている現実です。あるいは隣人としての、あるいは人間としての、と言ってもいいのかもしれない。ハレの日に教室で待機せざるを得なかった二人の新入生の心中に、その表情に、彼らは一瞬も思いを馳せることがなかったのだろうか。人生に関わるという、人を育てるという重い職にある者として、自らを恥じることはないのだろうか。

 長く忘れていた貧困がぼくたちのすぐ目の前にある。すぐ隣にあるのです。そしてそれによって、公教育の枠組みの中においてすら人が差別され、区別され、隔離される社会が現実にあるのです。それは個人の貧しさである以上に、社会の貧しさです。(2008.04.19)

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