山室静さんのこと

 山室静さんのことがずっと気にかかっていました。ご自宅の書斎から出火して、蔵書が灰になってしまったというニュースをだいぶ前の新聞で読んでことがあります。あの時以来、あまり先生のご活躍が聞かれなくなったような気がしていたのです。
 何年か前には、新たに著作集が編まれているという噂も聞きつけました。なのについに一冊も手にすることなく今日に至っている情けない山室ファンのぼくにとって、今回講談社文芸文庫に収められた『評伝森鴎外』は感謝の一言。新刊というわけではないけれど、巻末のかなり詳しい年譜で、92歳になられたという先生のご健在ぶりを知ることもできましたしね。でも驚きました。ほんの数年前と思っていたあの火事が、1982年(昭和57年)、つまり17年も前の出来事だったとは! ぼくも年をとったわけです。

ささやかな人間の営みを愛情を持って見守るようになり、文化というものが、それがどれだけ欠点をもっているものに見えようと、どんなに深く遠く歴史の中に根を下ろしているかを感じるようになると、人は簡単には進歩派革命派にはなれない。(『評伝森鴎外』90頁)

山室静『評伝森鴎外』(講談社文芸文庫)、講談社

 いかにも山室さんらしい一節です。これはもちろん、鴎外の作風の変貌の根底にあるものを探った部分からの引用なのですが、鴎外を語りながら、そのじつご自身を語っていらっしゃるような気がします。そして、さらに山室さんらしいのは、「……ここで鴎外の人間を見る目が深まったというのが事実としてもそれによって彼がより保守反動的になったとしたら、手放しで礼賛するわけにもいかない」として、根っこを見つめることと、根っこに回帰することを冷静に区別している。ぼくが山室さんを尊敬し信用するのは、このようなさりげないくだりに、山室さんの深い理性の目を感じるからです。
 ぼくが山室静という存在を知ったのは大学生の時。ある日の新聞の書評で『籐椅子の上で』が取り上げられ、なぜか興味を持ったぼくはさっそく書店で新刊を買い求め、読み始めたのでした。それ以来、山室さんの(私)小説集やゲルマン神話関連の著作と翻訳、そしてアンデルセンなどの童話の翻訳を読みつぎ、著作集(冬樹社版)の中の何冊かも手に入れて、穏和な語り口の中に鋭い一閃をのぞかせる、硬派とさえ言って良い、文芸評論家としての一面を知ることもできました。
 山室さんという方は、ぼくにはとても近しい存在です。
 どこかで読んだ覚えがあるのですが、山室さんは戦時中マルクス主義を奉じてかなり活発に活動し、ついには官憲に捕縛され、その責めに耐えきれず、仲間を裏切ってしまったといいます。ぼくは、彼のこの弱さに共感を覚えます。そして自分の弱さを人に隠すことなく、また自分自身をごまかすこともなく、その痛苦から自己を再構築していこうとする姿勢に、山室さんの誠実を感じます。
 そりゃ、世の中には強い人もいますよ。特高の拷問に耐えきった人は何人もいるし、獄死した人だっている。でも、みんながみんな、そんな強い人ばかりじゃないでしょ? 強くあらねばならないってわけでもないでしょ? 弱い人間は生きる価値がないってわけじゃないでしょ?
 ぼくは、自分自身が弱く卑怯な人間だから言うのかもしれないけれど、強かった誰某よりも弱かった山室静が好きなんです。人間らしいと思うんです。自分を欺いて転向を正当化する輩はイヤラシイけれど、自分の弱さに正面から向き合えるなら、自分の傷口を自分で縫合することが出来るなら、その積み重ねこそが人生だ、とさえ思うのです。
 体制とか反体制とか言っても、しょせんは相対的なものですからね。反体制の中にも体制はあり、権力がある。山室さんは結局、すべての体制、すべての権力から身を引いたのではないでしょうか。何かに自分を委ねてしまうこと、何かに自分をからめ取られてしまうことを潔しとしなかったのでしょう。
 頭上に絶対的な権威を戴かない山室さんは、アナキズムや老荘思想にも親しみます。この精神の軌跡は、深浅の差こそあれぼくにも身に覚えのあることで、なればこそ近しい、山室静です。ご講義やご講演に列したことすらないぼくなのに、それでもつい先生とお呼びしたくなるゆえんです。
 ともあれ、自分を見つめ自分を差配するのは、自分しかいない。山室静さんは、たくさんの友人・知人、教え子や愛読者たちに囲まれているように見えながら、その実、茫漠とした人間の大地に、独りすっくと立っておられるのです。(99.6.20)

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