藤沢周平の故郷、海坂

 鶴岡から仙台は、さすがに遠い道のりです。工場の始業までにたどり着こうと思えば、早朝の五時過ぎにはもう車を走らせなければなりません。ひと山どころかふた山を越えるわけですからね。今年の九月にほぼ全線開通という高速道路山形道を使う手はあるけれど、いかんせん通行料が高すぎて。経費で通行料を落とせないぺーぺーは、少しでも早く起きて、一般道を眠い目をこすりこすり、スピード違反覚悟で走り抜けるしかないのです。
 さて、ある朝いつものように仙台に向かって金峰山の麓を走っていると、道路脇に「藤沢周平生誕之地」を指し示す案内板が立っているではありませんか。いつのまに? 確かにここから右に入ると、藤沢周平の生まれ育った、高坂の集落です。
 そういえば最近、町中や市の広報・ホームページなどで「藤沢周平」「海坂藩」の字句をよく見かけるような気がします。
 先日たまたま立ち寄ったそば屋には海坂定食なるものがあって、その内容はといえば、麦切りにごま豆腐・からかい(からげ)等いかにも鶴岡らしい、そして周平の著作にもよく登場する郷土料理ばかり。ぼくにとってもなつかしい、おばあちゃんの味なのです。
 また、藤沢周平は市のホームページでもいわば常設展示されていて、「海坂藩のおもかげ写真コンテスト入賞作品」「藤沢周平の原風景」「藤沢周平の世界を歩く」「広報つるおか藤沢周平追悼特集H.9.3」などの特集ページを、いつでも見ることができます。いずれも見応えのある内容ですから、鶴岡市のホームページは、周平ファン必見のサイトといえるのかもしれません。
 ところが、周平ファンのひとりではあってもへそ曲がりなぼくは、ついこんなことを考えてしまうのです。マイブームならぬマイタウンズブーム・藤沢周平。かの方は、はたしてこれを喜んでくださっているのだろうか。草場の陰で微苦笑をなさっているのではあるまいか……と。
 そう考える根拠のひとつは、彼のいたって控えめで、派手なことを嫌う性格にあります。かつての教え子たちが母校に彼の記念碑を建立しようとしたときの困惑ぶりは、エッセーにも率直に記されています(「碑が建つ話」)。しかしもちろん、それだけのことではないのです。



 昭和二十四年三月に山形師範学校を卒業し、隣村の湯田川中学校に赴任した藤沢周平(本名小菅留治)。しかし彼の意気軒昂たる新米教師生活は、わずか二年にして、肺結核のために絶たれることになります。十数年の後に藤沢周平として世に現れるまでの、「私の長い不運な歳月のそれがはじまりだった」(『半生の記』、文春文庫、88頁)。
 病状が好転しない周平は、地元医のすすめもあって昭和二十八年に上京、東村山にあった専門病院に入院しました。そして三度にわたる手術を経てようやく退院したのが昭和三十二年のこと。『半生の記』によれば、その間に外泊許可を経て何度か郷里に戻り、再就職の道を探ることになるのですが、彼を待っていたのは体のいい拒絶でした。

……就職依頼の話は難航した。……
そしてまた少しあとになって気づいたことだが、両氏に限らず私が就職を頼んで回った郷里の人たちは、結核をわずらって手術で回復した人間が、はたして人なみの仕事が出来るものかどうかと、内心の危惧をおさえられなかったのではなかろうかと思う。
そのことが急にはっきりしたのは、もとの湯田川中学校の校長先生だった小杉重弥氏をたずねたときだった。……
しかし二、三の世間話が済むと、小杉氏は性急に私の再就職のことに触れてきた。そしてそれは私に仕事を世話しようという話ではなくて、せまい鶴岡で職をさがすのはむずかしいのではないかという、悲観的な見解を述べることだったのである。そして元校長は続けてこう言った。「小菅先生(私の本名)の才能を生かすには東京が一番だと思う」と。そう言われたとき、私は校長先生が何のこと言っているのか、咄嗟にはわからなかった。だがそれが私が教師時代につくった放送劇や授業に使った寸劇などを指しているのだとわかったとき、私はほとんど唖然としたことを記憶している。
……断言してもいいけれども、そういう才能を生活にむすびつけようと考えたことはなかった。
……それにしても才能云云は私から見れば実のない空虚な言葉としか思えなかった。また東京云云も、言えば責任のがれ、私は校長先生に責任があるなどとは一度も考えたことはなかったけれども、なにかそういう気分の話のようにも思われた。(『半生の記』、文春文庫、100~102頁)

 また別のところでは簡潔に、「私はそのときかなりつめたい扱いをうけたのだった」と記しています。
 『半生の記』に読む周平の記述はいかにも客観的で冷静です。しかし感情が表面で踊らないぶん、そしてそこにある種の執拗さが感じ取られるぶん、彼の無念がずしりとぼくの胸を打ちます。
 といって彼は誰を責めるわけでもありません。いや、じつは責めているのだけれども、その無念・その憤怒を自分の中で消化し昇華しようと必死にもがく人生が、言い換えれば教師・小菅留治が作家・藤沢周平に生まれ変わる人生が、そこから始まったのだ──と理解すべきでしょう。
 そして小菅留治が藤沢周平に生まれ変わったとき、彼の故郷も再生しました。そう、海坂という名の故郷です。



 巷間、海坂のモデルは鶴岡であるといわれます。確かに語られる言葉や食べ物からは作者自身の郷里が匂い、地形などの描写にしても、庄内のそこかしこを想起させる場合が少なくありません。

はっきり故郷の史実に材をとったというものでなく、つくりものの小説を書いているときにも、私はそのなかで郷里の風景を綴っていることがある。(「あとがき」、『闇の穴』所載、新潮文庫、251頁)

 このように書き記しながらも、いっぽうで周平は、(ぼくの知る限り)海坂のモデルを鶴岡であるとは明言していないのです。このことの意味は、決して小さくはありません。

……私は回復して退院した。そして当然のことながら、まっすぐ郷里に帰った。東京で就職するつもりはなし、またそういうコネもなかった。郷里に帰り、出来れば教職に復帰する、それが無理なら、何でもいいから働く場所を見つけるというつもりだった。(「再会」、『小説の周辺』所収、文春文庫、104~105頁)

 こんな心づもりの周平を待っていた、つめたい拒絶。東京などという町には少しの興味もなく、進学の時もせいぜい県都山形にある学校くらいしか思い浮かばなかった「おくて」の周平にとって、住まうべきはあくまでも郷里・鶴岡だったはず。そのうるわしき共同体から、彼は落ちこぼれてしまったのです。昭和三十二年十月、かつての同僚の紹介を得て東京へ舞い戻るときの彼の胸の内は、福澤一郎さんも推測されるように、「都落ち」の心境だったに違いありません。
 こののち周平と故郷の人々との連絡は、十数年の後に直木賞作家として故郷に錦を飾るまで、絶たれることになるのです。
 その間いくつかの業界新聞社を転々とし、生活の不安定に悩みながらも、昭和三十四年、彼は同郷の女性と結婚します。これはむろん縁と言うべきですが、ぼくには、捨てられてなお故郷を求めてやまない、彼の胸の内が窺えるような気がします。けれども運命はさらに過酷で、彼がようやく傍らに置いた可憐な故郷さえ、容赦なく奪い去るのです。結婚から四年、妻・悦子は生後八ヶ月の子どもを残したまま世を去りました。昭和三十八年秋、悦子二十八歳。

そのとき私は自分の人生も一緒に終わったように感じた。死に至る一部始終を見とどける間には、人には語れないようなこともあった。そういう胸もつぶれるような光景と時間を共有した人間に、この先どのようなのぞみも再生もあるとは思えなかったのである。(『半生の記』、文春文庫、108~109頁)

 彼を突き上げてやまない、人の世の不公平に対する憤怒。妻の命を救えなかった無念。「私と結婚しなかったら悦子は死ななかったろうか」という悔恨。これらの抑えがたい思いが、病の癒えた彼を受け入れようとはしなかった故郷の人々に、半ばは向けられていたに違いありません。天が無情なのではない。人が無情なのだ。鶴岡がせまいのではない。人がせまいのだ。郷里で普通の勤め人としての生活を送ることができていれば、このような苦界を味わうことはなかったはずだ、と。
 しかし、ぼくたちにとっても幸いなことに、小菅留治はこれで終わる人ではなかったのです。

しかし私はまた、死者がいくらあわれでも、そういううしろ向きの虚無感に歯止めなく身をゆだねるのは好きでなかった。私には子どもがいて、感傷にひたっている余裕はなかった。ちゃんと顔を上げていなければと思った。(『半生の記』、文春文庫、109頁)

 が、この鬱屈、この怨念はなにかに吐き出さずには済まない。狂うことはできないけれども──

しかし、狂っても、妻子(周平は昭和四十四年に再婚している──引用者注)にも世間にも迷惑をかけずに済むものがひとつだけあって、それが私の場合小説だったということになる。……物語という革袋の中に、私は鬱屈した気分をせっせと流しこんだ。そうすることで少しずつ救済されて行ったのだから、私の初期の小説は、時代小説という物語の形を借りた私小説といったものだったろう。(「転機の作物」、『小説の周辺』所収、文春文庫、194頁)

 こうして世に出た「私小説」に、彼の鬱屈はどのような影を落としているのか。一読たちまち了解されるのは、初期の短編──「囮」(昭和四十六年)、「黒い縄」(昭和四十七年)、「ただ一撃」(昭和四十八年)などに共通する、暗く、救いのない結末です。「囮」のおふみ、「黒い縄」のおしの、「ただ一撃」の三緒。ヒロインたちが運命に翻弄されるのは定石だけれど、辿り着いた先にすら、光は射さないのです。
 暗いのはストーリーだけではありません。作者は登場人物を借りて、彼自身の猛々しい思い、陰の部分を隠さずに吐露します。たとえば晩年の葛飾北斎を主人公とする「溟い海」(昭和四十六年)で描出する、北斎その人の、無名でいることに耐え難い胸の内──。

月並みなものに爪を立てたくなるもの、世間をあッと言わせたいものが、北斎の中に動く。北斎ここにあり、そう叫びたがるものが、北斎の内部、奥深いところに棲み、猛々しい身ぶりで歩き回ることをやめない。(「溟い海」、『暗殺の年輪』文春文庫、所収、197頁)

 あるいはまた、北斎が、安藤広重に対する嫉妬心からやくざものを雇い彼を襲う計画を立て、待ち受ける闇の中から覗き見たライバルの姿──。

……正視を憚るようだった。陰惨な表情。その中身は勿論知るよしもない。ただこうは言えた。絵には係わりがない。そこにはもっと異質な、生の人間の打ちひしがれた顔があった、と。言えばそれは、人生である時絶望的に躓き、回復不可能のその深傷を、隠して生きている者の顔だったのだ。(「溟い海」、『暗殺の年輪』文春文庫、所収、231頁)

 ここで剥きだしになっているのが、北斎や広重の名を借りた藤沢周平自身の姿でなくてなんだというのでしょう。これは彼の自画像であるに違いない。彼の内なる狼が世間を相手に恫喝し、あるいは嗚咽しているのです──「小菅留治ここにあり」。
 また、時代小説の華とは言いながら、斬り合いや立ち会いなどの描写にも、あまりにリアルで凄惨にすぎるものがあるようです。

又蔵は低く気合いをかけると、握りしめている柄に体重をかけて刀を押し出した。ほとんど同時に、冷たいものが腹の中に深く入り込んできた感触があった。その硬く冷たいものを拒んで、全身に痙攣が走るなかで、又蔵はとめどなく躰が傾いて行くのを感じた。

 「又蔵の火」(昭和四十八年)からこのような例を引きながら、植村修介さんは、「自分の身を刃物によって傷つけられた人でないと、とうてい書きえない文章」という出井福一郎さんの感想を紹介されています(「療養所は『人生の学校』だった」、文藝春秋編『藤沢周平のすべて』所収、文藝春秋、158頁)。
 全く同感ですね。いや、ぼくはもっと深読みをしてしまって、それは別の作品を読んでいたときでしたが、凄絶な(……と、気の弱いぼくには感じられた)斬り合いの描写に恐れをなして、著者は自傷に及んだ経験があるのではないか、と疑ったことさえありました。
 むろんこれはぼくの妄想に過ぎません。けれども、やや嗜虐的な傾きを持つこれらの描写の背景に透けて見えるのは、やはり、鬱屈に身もだえする藤沢周平の荒涼とした心の風景ではないでしょうか。



 あくまでも暗いストーリー、傷ついた自我の噴出、ひんやりとした(絵画にたとえるなら)マチエール──初期の短編に色濃い負の要素は、しかしながら年月とともに、少しずつ薄められていったようです。その変貌を可能にしたのが、昭和四十六年度のオール讀物新人賞受賞(「溟い海」)、そして昭和四十八年度の直木賞受賞(「暗殺の年輪」)による世間の認知・評価であったことは確かです。周平はオール讀物新人賞の受賞に際して、次のように語ったと伝えられます。

今度の応募は、多少追いつめられた気持ちがあった。その気持ちの反動分だけ、喜びも深いものとなった。
ものを書く作業は孤独だが、そのうえ、どの程度のものを書いているか、自分で測り難いとき、孤独感はとりわけ深い。(「受賞のことば」、『筋沢周平のすべて』所引、文藝春秋、404~405頁)

 彼のことですから、さして表情を変えることもなく、しごく恬淡とその胸の内を語ったものでしょうか。しかしその内実は、彼の内に拡がる深い心の闇と孤独からの、飛翔の喜びに満ちた挨拶であったはずです。
 書くことが、吐き出すことが慰藉になるのだとして、はたしてそれだけで魂の平安を得られるのかどうか。たとえば小生とて書くことで自分を支えているのだけれど、書くものが読者を想定しない日記ではなく広く公開されるWEBという媒体であるのは、心の奥深くに、誰かに理解してもらいたい、手をつなぎたい、〈日本のどこかで僕のように悩み、僕のように喜び、僕のように怒り、僕のように泣いているあなたの夢と少しでも触れ合いそして紡ぎあう〉ことを希求する、願いとも祈りともつかない思いがあるからです。
 さあれ、「ここにあり」という矜持によって支えられる生があり、しかしそれのみにては支えきれぬ生がある。

小説は怨念がないと書けないなどといわれるけれども、怨念に凝り固まったままでは、出てくるものは小説の体をなしにくいのではなかろうか。再婚して家庭が落ちつき、暮らしにややゆとりが出来たころに、私は一篇これまでとは仕上がりが違う小説を書くことが出来た。「溟い海」というその小説がオール讀物新人賞を受けたとき、私はなぜか悲運な先妻悦子にささやかな贈り物が出来たようにも感じたのだった。(『半生の記』文春文庫、110頁)

 好ましいはずはないけれど、しかし周平にとって、書き尽くさなければ抜け出すことのできない闇であり、怨念なのでした。文学賞の受賞とそれをきっかけにした世間の認知は、彼が漆黒を突き抜けるためのエネルギー、あるいは確かな光明を与えてくれたのです。



 さて、このように各賞の受賞が変貌の必要条件であったとすると、いまひとつ、故郷との和解は、彼が今日ぼくたちが愛するような作家となるためのいわば十分条件であったといえます。
 故郷にあって、学校教師としてごく普通の生涯を終える心づもりであった周平。でありながらその故郷を、心ならずもあとにせざるを得なかった周平です。彼の故郷に対する思いは複雑で、屈折していました。故郷はただたんに懐かしく、慕うべきところではなかったのです。
 けれども、人は誰でも原風景とでもいうべきものを持っています。アイデンティティと言い換えても良いのかもしれません。私を私たらしめ、私が私として育つ、私の居場所。周平にとってそれはあくまでも鶴岡という風土であり、さればこそ、故郷との距離を彼の中で調整し、故郷と和解することは、彼の人生において避けては通れない道でした。まして表現者となった今、原風景は否応なしにその作品を統べるのですから。

私は、二十数年前に教師をしていた中学校にも行った。そこで私は、いきなり胸がつまるような光景に出くわした。(略)
会場の聴衆の前列にそのときの教え子たちがいた。男の子も女の子も、もう四十近い齢になっていた。それでいて、まぎれもない教え子の顔を持っていた。
私が話し出すと女の子は手で顔を覆って涙をかくし、私も壇上で絶句した。(略)
講演が終わると、私は教え子たちにどっと取り囲まれた。あからさまに「先生、いままでどこにいたのよ」と私をなじる子もいて、“父帰る”という光景になった。(「再会」、『小説の周辺』所収、文春文庫、107~108頁)

 周平にとっても、〈故郷はボロを着ては帰りにくい〉。

どこにいたかという教え子の言葉は、私の胸に痛かった。私は教え子たちを忘れていたわけではなかった。一人一人の顔と声は、いつも鮮明に私の胸の中にあった。しかし業界紙につとめ、間借りして小さな世界に自足していたころ、声高く自分のいる場所を知らせる気持ちがなかったことも事実である。そういう私は、教え子たちにとっては行方不明の先生だったのだろう。(同前)

 まさしく「教師冥利に尽きる」光景ですよね。直木賞という錦など、教え子たちの涙を前にしては意味もなく吹っ飛んでしまったに違いありません。想像にすぎないけれど、このとき彼は、(故郷に)捨てられたのではなかったのだということを、発見したのかもしれません。そしてこれをきっかけに、彼の故郷に対する屈折した思いは徐々に氷解していったのではないでしょうか。



 つぎに、周平の中で故郷が再生してゆくその軌跡を、彼の作品をたどりながら確認してみましょう。
 ストレートにもの申せば、藤沢周平の小説世界において、その故郷は海坂でした。そして海坂と鶴岡との距離が、すなわち周平と鶴岡との距離だったと考えられます。
 今日藤沢文学を愛する多くの人たちが持っている海坂という地のイメージは、いかにも豊穣かつ鮮明です。極めつけのファンともなれば海坂城下の絵地図が頭にインプットされているかのごとくですし、まあそこまではいかなくとも、海坂の味わい、海坂の光と風、海坂の山川草木の澄明な輝き、そして海坂城下の町々のさんざめきは、ぼくたち読者の脳裏にしっかりと焼き付いて離れません。しかし海坂は、初めからこのような懐かしい美しさを身に纏って登場したわけではなかったようです。

丘というには幅が膨大な台地が、町の西方にひろがっていて、その緩慢な傾斜の途中が足軽屋敷が密集している町に入り、そこから七万石海坂藩の城下町がひろがっている。城は、町の真中を貫いて流れる五間川の西岸にあって、美しい五層の天守閣が町の四方から眺められる。(「暗殺の年輪」、『暗殺の年輪』所収、文春文庫、82頁)

 海坂という地名が初めて登場する、「暗殺の年輪」(昭和四十八年)。海坂のおおまかなスケッチと、海坂ものに欠かせない五間川、そして王土の象徴でもあるかのような五層の天守閣を簡潔に描写しますが、特に思い入れは感じさせません。ここでの海坂は、あくまでも舞台装置に過ぎないのです。
 「相模守は無害」(昭和四十九年)。史実にヒントを得て書かれた短編であり、後に彼は舞台を庄内藩にもどし、史実そのものを取り上げることになります(長門守の陰謀」昭和五十一年)。
 ここでは海坂藩は三河以来の譜代とされ、海坂藩主神山右京亮が庄内藩主酒井忠勝に、支藩山鳥領が白岩八千石に、その領主神山相模守が酒井長門守に擬せられています。幕府の隠密が活躍する筋立ては創作ながら、舞台設定は庄内藩そのもの。やっぱり海坂のモデルは庄内だ! と確信したくなるけれど、ここでも自然にかかわる描写は、「海坂領の北に荒倉山という山がある。高さはそれほどでもないが、深山幽谷をそなえて懐がひろく、山伏修験の山として知られ、信仰を集めていた」というほどのもので、ペン先に情感が込められているとは思えません。
 同じ年に発表された「唆す」の主人公神谷武太夫の故郷もまた、海坂でした。今は江戸にあって浪人暮らしを続ける武太夫。彼は百姓一揆をあおった罪を問われ、藩を追放された身です。事実はどうだったのか?

唆すという気持ちはなかった。追いつめられている藤次郎をなぐさめるほどの気分だった。
だが話している間に藤次郎の眼に、不意に狂暴な輝きが生まれたのをみたとき、武太夫はぞっとした。藩の禄を喰むものがすべきでないことをした後悔が胸を走った。(「唆す」、『冤罪』所収、文春文庫、94頁)
武太夫の心の中に、百姓たちの暴発を恐れる気持ちとは別に、押さえきれない喜びのようなものが動いたのはその頃からである。自分が播いた種子が、確実に育ち、枝葉をつけ、実って行く感覚が快かった。(前掲書、95頁)
江戸の裏店に棲息する身となっても、武太夫の体内に棲む不穏の虫は眠らない。──途方もない騒ぎの糸を引くのだ。
武太夫は低く笑った。闇の中の笑いを聞いたものはいなかった。(前掲書、96頁)

 あとがきには、「『唆す』は、一昨年(昭和四十八年──引用者注)の石油ショックで、砂糖がない、チリ紙がないと、一種のパニック状況を示した世相がヒントになったもの」(前掲書、420頁)とあります。むろんその通りに違いありませんが、ぼくはそれ以上に、神谷武太夫の隠微な喜びの中に、周平が書き尽くさなければならなかった怨念の残り火、なおも蠢く狼の唸りを感じてしまいます。
 また同じく昭和四十九年に発表された「潮田伝五郎置文」は、周平文学にあってもとりわけ印象的な舞台となることの多い川辺での果たし合いに始まり、そして書簡による伝五郎の独白に導かれ、さらには海坂城下の大がかりな盆踊りの一夜にそれぞれの人生の転機を置くという趣向にとんだ一編です。この盆踊りの描写は『鶴岡市史上巻』(鶴岡市役所編纂、ゑびすや書店発行、昭和三十七年)の「第一四節 娯楽」の項を参照して書かれたもののようで、周平文学が故郷の歴史と文化に多くを負っていることが窺えます。もっとも、見聞したことのない古い祭りを登場させるわけですから、故郷のそれに限らず、何らかの資料に依拠するのは当然でしょう。むしろここで注目すべきは、「川」というシチュエーションです。
 藤田昌司さんは『闇の穴』(新潮文庫)の解説の中で、鶴岡の町の光景を藤沢周平の原風景とした上で、なかでも、〈とりわけ重要な意味をもっているのが川と橋ではないか〉と指摘しておられます。

川はわれわれ日本人にとって、無常観の象徴なのである。……例えば「木綿触れ」の足軽の妻が、村の裕福な長人の家から窮屈な下士の家に嫁入りし、やっと幸せになったのも束の間、生まれた赤ン坊に死なれて悲嘆にくれ、その傷がようやく癒えようとした矢先、自殺に追い込まれてしまうように。藤沢さんはそのような人生の哀しみを、共感を持って描く作家なのだ。(『闇の穴』、新潮文庫、258頁)

 そしてまた川は、日本人にとって断念の場でもあり、生活そのものでもあった、と書いています。下級武士や市井の庶民の人生と日々の生活を描くとき、川は欠かせない背景だったのです。
 昭和五十一年に発表された『小川の辺』も川が重要な舞台となっている作品で、戌井家当主・戌井朔之助が海坂藩を脱藩して江戸へ逃亡した義弟を藩命によって討つというストーリーの中で、川はとても印象的な姿をみせています。

橋を渡るとき振り返ると、立ち上がった田鶴(朔之助の妹──引用者注)が新蔵(朔之助に同道した戌井家の若党──引用者注)に肩を抱かれて、隠れ家の方に歩いて行くところだった。橋の下で豊かな川水が軽やかな音を立てていた。(「小川の辺」、『闇の穴』所収、新潮文庫、81頁)

 小編の最後にごくさりげなく、心象を映すと評される藤沢周平の風景描写が置かれている……。軽やかに音立てる川の流れは彼らの(つつましくはあっても)明るい未来を暗示するものか……。周平文学の変化、あるいは深化は、明るさやユーモアといった要素だけではなくて、このような自然描写の活かしかたにも現れているのかもしれません。
 他にこの時期に発表された海坂ものとしては、「竹光始末」(昭和五十年)「遠方より来る」(昭和五十一年)、そして昭和五十一年から昭和五十五年にかけて書かれた隠し剣シリーズ(『隠し剣孤影抄』『隠し剣秋風抄』)があります。逆に言えばこれらに限られるのであって、次に海坂藩が登場するのは、海坂ものの集大成といわれる『蝉しぐれ』(昭和六十一年から六十二年にかけて山形新聞夕刊に連載)を待たなければなりません。



 遅れてきたファンであるぼくには不思議なほど長い空白に思えるけど、リアルタイムで藤沢周平作品に親しんできた読者は、あまり違和感を感じなかったかも。なぜといって、隠れ海坂ものとも言うべき『用心棒日月抄』シリーズがあるんだもの。
 数多い藤沢周平作品の中でも、昭和五十一年から平成三年まで断続的に書き継がれたこのシリーズ(全四冊)の人気の高さは格別でしょう。作者自身は「遊び」と漏らしたらしいけれど(幼友達・五十嵐久雄さんの話、山形新聞社編『藤沢周平が愛した風景』所載、詳伝社黄金文庫)、青江又八郎、細谷源太夫、相模屋吉蔵、そして女嗅足佐知等々、個性豊かな面々が縦横に江戸市中を駆け回り、難事を鮮やかにくぐり抜けて行くストーリーの爽快さ、表現の突き抜けた明るさは群を抜いています。これに又八郎と佐知のひめやかにして甘美なラヴ・シーンが重なるとあれば、これはもう、文句なしに面白い。「転機の作物」たるゆえんかな?
 主人公青江又八郎の生国は、読者には「北の方のさる藩」としか知らされません(『用心棒日月抄』、昭和五十三年)。それでも評者が海坂を語るとき、必ずといっていいほどこの作品が引かれるのは、又八郎と佐知との会話にときおり庄内の味覚が登場するからです。たとえば昭和五十三年から昭和五十五年にかけて書かれたシリーズ第二作『孤剣』に──。

「おお、小茄子の塩漬け、しなび大根の糠漬けか」
又八郎は、箸をおろして夢見るような顔つきになった。
「ひさしく喰っておらん」
「そのうち、持ってきてさし上げます」
佐知は笑いをふくんだ眼で、又八郎を見た。
(略)
「こちらの方に言わせれば、国の馳走は口にあわぬと申されるかも知れませんが、青物と肴だけはやはり国の方がおいしゅうございます」
「おお、それよ。寒の海から上る鱈などはたまらん」
「はい。寒の鱈、四月の筍」
二人はしばらく夢中になって、国の喰いものの話をした。(『孤剣』、文春文庫、294頁~295頁)

 シリーズ第三作の『刺客』(昭和五十六年から五十八年にかけて雑誌連載)には、間宮中老の屋敷を訪れた又八郎が酒肴のもてなしを受ける場面があります。

簡単な酒肴の支度が出て来て、魚は焼いた小鯛だった。夏の終わりのころの小鯛は最高の美味だが、百石の禄のうち、財政困難を理由に三十石も藩に借り上げられている又八郎の家では、なかなかお目にかかれない高直の魚である。(『刺客』、文春文庫、15頁)

 第三作で故郷の馳走が供されるのはここだけ。あとは又八郎と佐知の話題にも上りません。ところが第四作『凶刃』(昭和六十三年から平成三年にかけて雑誌連載)では、二人の間でまたもや故郷の味が懐かしく思い出されているのです。

又八郎と佐知は、いまごろは旬を迎えているはずの筍や山菜、鰊、それにもう少し季節が移って、梅雨のころに極上の美味をそなえると言われている小鯛などを話題にした。(『凶刃』、文春文庫、59 ~60頁)
「これは、醤油の実ではないかな」
半信半疑で又八郎が言うと、佐知が微笑して、よくおわかりになりました、と言った。
(略)
「これはめずらしい。とよのみやげかな」
「そうです。魚は身欠き鰊、椀の味噌汁の実は干し若布。みな国のいさば屋の物でございます」
ほかにもう一品、とよが持参した品があるのだが、今日は間に合わなかったと佐知は言った。
「青江さまはカラゲをご存じでしょうか」
「知っておる。あの石のように固い干物であろう。煮ると、なかなかの美味になる」
と又八郎は言った。(『凶刃』、文春文庫、132頁~133頁)

 それまでせき止められていたものがこらえきれずに噴出したかのような、懐かしい故郷庄内の四季を彩る、美味そして珍味への思い。用心棒シリーズに描かれる──海坂とおぼしき──「北の方のさる藩」は、これまでしばしば舞台となってきた「海坂藩」とは明らかに違います。食を通してでありその地を直接描いたわけではないのに、より親しく慕わしい存在、安らぎとうるわしさに満ちた故郷として、読者の間近に立ち現れます。四季折々の食べ物から、そこでの楽しい生活が実感されてくるんですね。このぬくもりを又八郎たち登場人物と共有することこそが、ぼくたち読者が海坂ものを読む楽しみのひとつでもありましょう。
 こうして跡をたどってみると、藤沢周平がデビューしてから昭和五十年代前半まで、彼の作品中の海坂は、意外にも至極説明的な記述に終始したものだったことに気づかされます。数は多いが(短編が主だから当たり前と言えば当たり前?)体温は低く、そこに作者の特別な思い入れを感じ取ることは難しい。今日感謝を持って語られ、広く人口に膾炙している海坂、口の端に上るやいなや読者の肺腑に潜み入る海坂の香気は、用心棒シリーズ第二作『孤剣』以降のことなのです。
 思うに、藤沢周平は背中合わせの故郷から作家としての人生をスタートさせたのです。
 描写内容こそ故郷のイメージに重なるものの、向き合うような親密さが感じられない初期の海坂ものは、あえて言えば本当の海坂もののためのプロローグです。さらにいえば、郷土の味覚が幸福に語られる「用心棒シリーズ」などは、エピローグにも例えられるかもしれません。──そして長い助走の末についに花開いた至高の海坂もの。これこそが、彼の最高傑作の一つにも数えられる『蝉しぐれ』であることは、誰の目にも明らかでしょう。
 『蝉しぐれ』がそれまでの(プロローグとしての)海坂ものと決定的に違うのは、この作品には隅々にまで海坂が満ちているという点。決して他と置き換えることはできません。ぼくたち読者は、最初の数ページを繰るやいなや、小川が低い水音をたてて流れ、欅やかえでの木立が立ち並び、にいにい蝉がさんざめく海坂の夏にたちまち引きづり込まれてしまいます。心の中に海坂の光と風が満ち満ちるんですね。これはもう、海坂ものであることの証拠を、作品の一部の引用で指し示すようなレベルではありません。牧文四郎と逸平・与之助の友情、文四郎とふくの初恋、父・助左衛門の切腹……これらすべての「遠景」(常盤新平さんの巧みな表現を流用させていただくなら)として、海坂はあるのです。
 ぼくはこの作品の中に、見事に再生した藤沢周平の故郷をみる思いがします。怨念や確執は消え去り、今や彼の描き出す世界は澄明そのものです。『蝉しぐれ』では、彼の実際の故郷・鶴岡と、彼が虚構の世界に作り上げた故郷・海坂とが何のこだわりもなく向き合い、とけ合っています。




 しかし、この幸福な果実だけをみて、それまでの歩みにみられた両者の微妙な距離に目をつむってしまったのでは、藤沢周平その人とその文学の光と陰を、本当に理解したことにはならないでしょう。
 師範学校で同級生だった小野寺茂三さんは、周平が鶴岡市による名誉市民の表彰を悩んだ末に断ったというエピソードを紹介されています(「座談会 わが友小菅留治」、『藤沢周平のすべて』所収、文藝春秋、125頁)。晴れがましいことが嫌い、庄内弁でいえば「かたむっちょ」(頑固)だからと理解されているけれど、はたしてそれだけなのか。

〈主義主張でせっかくの栄誉をおことわりするほどえらくはありませんが、 私はかねがね作家にとって一番大事なものは自由だと思っており、世間にそ ういう生き方を許してもらっていることを有難く思っておりました〉。〈市長さんのおしゃる名誉市民ということはこの上ない名誉なことですが、 これをいただいてしまうと気持だけのことにしろ、無位無官ということでは 済まなくなり、その分だけ申し上げるような自由が幾方か制限される気 がしてなりませんので、せっかくの打診ではございますが、辞退させていた ただきたいと思います〉。

 周平は鶴岡市長にあてたこのような文面の手紙で、名誉市民の表賞辞退を告げたようです。横山稔さんがご自身のホームページで紹介されています。日付けは「平成六年十二月二十八日」とのこと。
 本人の固辞を受けて、市議会は「藤沢周平氏を顕彰する議案」を可決したという経緯もあわせ、信念をつらぬく作家と、それを尊重する鶴岡市とのうつくしいエピソードとしてこれを見るむきもあるけれど、それはどうでしょうか。この手紙にはどうやら隠し味がある。

 〈しかし、作家としての考えもあるからとおっしゃる市長さんの打診のお 言葉は、ご自身市の広報にコラムなどを書かれている方ならではの理解ある おっしゃりようで、よくあるお役所的な一方的なおっしゃり方ではないこと に感銘し深く感謝している次第です〉。

 おなじく鬱屈をかかえるぼくのような人間は、最後に添えられたこのような感謝の言葉を、どうしてもスルリと飲み込むことができないのです。ほんの少しだけれど、咽にピリッと辛いものを感じてしまうんですね。彼に、「いまさら」という思いがなかったかどうか……。
 それが証拠に、藤沢周平は名誉市民を辞退したその同じ年、平成六年に、第十回東京都文化賞を受賞しているのです。性格の異なる表賞とはいえ、いささか奇異な成りゆきです。

四十年以上、東京に住んでいながら顔はいつも山形の方を向いています。そんな私がこういう賞をいただくのは、いささか面映ゆい気がします。(受賞スピーチから、『藤沢周平のすべて』所引、文藝春秋、431頁)

 望郷の念を端的に表したことばとして素直に聞くことができるし、またそれはそれで正しいでしょう。しかしその底には、鶴岡が彼にとってはついに望郷の地でしかあり得なかった来し方への哀切が、奥深く潜んでいるようにも思えます。そしてもろん、傷ついた彼を受け入れ、花開かせてくれた懐深い東京への感謝も。
 「かたむっちょ」藤沢周平。最後の、そして終生とけることのなかった、こだわりでしょうか。

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