『マチョ・イネのアフリカ日記』再読

 大学で勉強することの意味って、何? いわゆる指定銘柄大学の学生なら、その学校に入ったこと自体に意味があるわけだから、考えもしないことだろうけれど、ぼくなどはどうしても考えてしまいますね。
 たぶんはっきり言えるのは、対外的にはさして意味はない。「学士」なんて、掃いて捨てるほどいるわけだし。意味の有る無しは、やはり自分自身(自分から見た自分)の、知的なあるいは精神的な成長のうちに見るしかないでしょう。
 ところでぼくの経験では、大学とそれまで卒業してきた学校との一番の違いは、教壇に立つ先生そのものでした。とにかく変わった人が多い。小・中・高校の先生の採用試験なら、間違いなく「面接」で落とされるタイプの先生が多いのです。だから面白い。
 ぼくがその講義に列したなかで一番の変人だったのが、当時非常勤でおいでになり、文化人類学を講じておられた西江雅之先生。現在は早稲田大学文学部教授(のハズ)。
 のっけから、「ぼくはお風呂に入らない、歯を磨かない、顔を洗わない」でぼくら凡人をけむに巻き、人か猿かと噂された(なんでも、階段をつかって二階から下に降りたことがないそうだ)子供時代のはなしから、独学でスワヒリ語をマスターして半年間のアフリカ冒険旅行に加わり、そのうえ文法書や辞書まで完成させた学生時代のはなし、そしてすべての言語、すべての民族、すべての味覚に通じていることを確信させる縦横無尽、抱腹絶倒の話芸。ああ、哲人とは彼のこと。
 こんなふうにいつも笑ってばかりいたので、あらためて、何を覚えたの? と聞かれると、ぼくはちょっと答えに窮してしまいます。ただ、「文化は檻の様なもの」という例えがとても印象に残っているのです。
 たとえばぼくたち日本人は、好むと好まざるとに関わらず日本という文化の檻の中にいる。人によってはその檻から手を出したり足を出したり、ほとんど半身を出している者までいるけど、それでもやっぱり檻からは逃れられない……。
 この話を聞いて、日本の近代から現代の多くの知識人がある時期強く西洋に憧れ、その身を投じながらも、最後には結局日本への回帰という挫折(あえて、挫折と言おう)を経験せざる得なかったそのわけが、理解できたような気がしたのです。
 ところで西江先生は、あれでもやっぱり日本人?(1996.7.19)

  • 西江雅之『マチョ・イネのアフリカ日記』(新潮文庫)、新潮社

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