この甘美な世界に安らぎを

 甘い。耽美的に過ぎる。しかし……。

 人は、一度巡り合った人と二度と別れることは出来ない。

大崎善生『パイロットフィッシュ』

 書き出しから、いきなりじゃありません?

 人間の体のどこかに、ありとあらゆる記憶を沈めておく巨大な湖のような場所があって、その底には失われたはずの無数の過去が沈殿している。何かを思い立ち何かを始めようとするとき、目が覚めてまだ何も考えられないでいる朝、とうの昔に忘れ去っていたはずの記憶が、湖底からゆらゆらと浮かび上がってくることがある。

前掲書

 大崎善生さんの『パイロットフィッシュ』のここかしこでフラッシュのように煌めく美しい言葉。省察。魅力はそれに尽きるのであって、トレンディドラマのような舞台設定やストーリーは、少なくともぼくには無関係だ。

 部分が美しい。しかし、作品全体を通底するものも確かにあるので、それは悲しみとか、孤独とか、喪失感とか言う他ないものなんだ。前向きじゃないよね。健康的とは言えませんよ、たぶん。

 けれども、たぶん多くの人が「湖底からゆらゆらと浮かび上がってくる」記憶に時に苦しみ、またそういう自分を持て余しつつ虚空をさまようので、「透明感あふれる文体で繊細に綴」られたこの小説、叙事詩にも似た甘美な世界に、わずかな安らぎと安心を得るのかも。

 最新作『孤独か、それに等しいもの』も早く読まなくっちゃ。(2004.07.06)

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