懐かしい『鳥かごの詩』

 北重人さんの『鳥かごの詩』(小学館)を懐かしく読みました。懐かしいというのは、ぼくも学生時代の一時期、主人公康夫のように新聞販売店に住み込みで働いていたことがあるからです。都合二年にも満たない期間だったけれど、あの日々の印象は強烈で、良い意味でも悪い意味でも今日のぼくがあるのは新聞屋体験のおかげです。

 個性的な面々が顔を揃えた店にやくざのタケシが康夫を探して現れた時、仲間たちはそれぞれに康夫をかばい、タケシに相対する。社会の吹きだまりにおし込められているような彼らが、てんでバラバラの人間の集まりのような彼らが結束する美しい場面です。あるいは哀れかもしれないけれど──だって、相手のタケシと彼らの距離だってさほどないし、結果は惨憺たるものだから。でも同じような境涯の人々と寝起きし、一緒に働いてきたぼくには、その心意気がよくわかるのです。好き嫌いとかではなく仲間、また仲間を守ることが自分を守ることなんだ。

 印象的といえば、やはり元やくざの(タケシの父親でもある)配達先のおじいちゃんの家に招かれて食事をする場面も心にのこります。いっとき彼の心に棲みつきそうして離れざるを得なかったサキちゃん、それからトシもテーブルの前に座り、老人は母親と妻を殺された東京大空襲の体験談を語るのです。

 新聞屋とその周辺には本当にいろいろな人がいる。褒められた人ではなく、褒められた人生ではないのかもしれない。けれどそれもまた人生。自らが体験した空襲や当時のベトナム戦争を引き合いに出して、老やくざは語るのです。

 やくざには、ときに命のやりとりがある。しかしな、関わりのない者には、絶対に手は出さねえや。それが、どうだ。かまわずに殺す。人ひとりの命には、父や母、連れ合いや恋人、子に兄弟、もろもろの心が纏い付いているんだ。それをあっという間に奪いやがる。あれは、人のすることじゃねえ。

 小説の後半、サキちゃんをめぐる争いは少しエンターテイメント小説的にすぎ、まあ文字通り小説だから仕方ないのだけれど、そこまでのことは滅多にないよ、と言いたくなります。でも気になるなあ、五十歩百歩の世界ではあったもの。康夫に天国と地獄を見せつけたサキちゃんは、幸せになれたのだろうか。トシ、キミは愚かだが立派だ。表の世界で生きてくれ。新聞販売店の仲間はその後どうなったのだろう。羽ばたいていった人も、澱のように沈んで行った人も。

 昭和四十九年春。A新聞T専売所でぼくが出会った人たちは、あれからどうしているだろう。ぼくをかわいがりいつもおすし屋さんに連れて行ってくれたAさん、お元気ですか? オヤジさん、そしてみんなのお母さん代わりでもあった奥さん、お世話になりました。何のお礼も出来ずにいるけれど、ぼくは感謝の気持ちを忘れたことはありません。(2009.05.24)

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