ぼくにはわからない

 いや、困っちゃいました。全然わからない。川上弘美さんの中編小説『いとしい』。三分の一ほどのところで挫折です。

 去年、彼女の新著『光ってみえるもの、あれは』を読んで感銘を受け、見当外れかも知らんけど「ぼくもまだ若い。芥川賞作家の小説の良さがわかる」と、そんな自分自身に感心してたのに、結局はこのザマです。何がわからないって? うーん、何もかも。

 とりわけ登場人物の造形がつかめない。あんな人たちはぼくの周りには、もちろんぼくの中にも、そして過去にも未来にも、いないような気がする。気づかないだけかもしれないし、「いる」とか「いない」とかいうことは評価の基準にはならないのかもしれないけど。

 解説では「変容するものへの願望」が語られていますね。その方向性は何なのだろう。願望は意思なのだろうか、希望なのだろうか?

 いま少し宮田毬栄さんの解説から引かせていただくと、ぼくはさっき「造形がつかめない」と書いたけど、宮田さんは「自己を主張することのない液体みたいな、気体みたいな人物たちのなかでも、マリエ、ミドリ子、紅郎の造形は秀逸」とおっしゃるんですよ。うーん、液体や気体も造形なのか?

 月々の水道代や電気代、ガス代、子供の学費、保険料。どうかすると(特に給料日前には)今日明日の食材の調達にも思案投げ首をしなければならないぼくには、やっぱりワカラナイ世界だなぁ。
 ぼくは生きなきゃならん。子どもたちもいる。無様でも、汗まみれ油まみれでも、這ってでも、カットバンだらけになっても、生身で暮らさなきゃならん。液体にも気体にもなれやしない。あんなぼんやりしたユーレイみたいな人たち(生活のなかに定位されていない人間!?)とは、とてもじゃないがつき合ってらんない。

 お、おっと、この存在の不定位感のようなものが、この小説のテーマだったりして?(2004.03.21)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?