新しい? 歴史教科書

 外圧によってしか変わらない国なのかもしれません、日本という国は。開国と明治維新。太平洋戦争の敗戦。最近は不良債権の処理を迫られてますね、欧米諸国から。

 まるでイジメにでもあっているかのような国の歴史が、ぼくら市井の人間はともかく、知的階層に鬱屈を生じさせ、またある種の人々を偏狭なナショナリズムへと導く。新しい歴史教科書は、このような経緯から産み落とされた鬼っ子でしょうか。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の会員リストを立ち読みすると、西欧の文化を研究したり、それに詳しいと思われる人たちの名前が多く見受けられます。伝統への回帰の系譜が、このたびは教科書という形で立ち現れたかのようです。

 ぼくに言わせれば、彼らのキーワードとなっている「自虐」はむしろ彼らの中にこそあるのであって、戦後の民主教育で育ってきた人々に、そのような意識は皆無です。大いなる自信も持っていない代わりに、負の歴史を教えられすぎて(?)意気消沈しているわけでもない。もはやオジさんになってしまったぼくには憎たらしいほどに、東西を楽に(現実でもまたバーチャルでも、モノでもまた思考でも)行き来する人たちが多数です。屈折を持つ人は、屈託なく生きる人々にいらだちを覚えるものです。

 少しばかりですけれど、ぼくは以前に日本軍が中国で行った残虐な行為を写真で見たり、文章を読んだりしたことがあります。ぼくが眼にしたのは、腹を切り裂かれた妊婦であり、大勢の兵士たちによって家族の目の前で陵辱される女性であり、日本刀に串刺しにされた幼子でした。数の問題ではないのです。たった一人でも、罪のない人間が惨殺されるとき、それは決して許すことのできない、どのような理屈によっても容認することのできない、悪なのです。

 戦争は議論の余地なく、悪です。必然に導かれる歴史がないとはいわないけれど、その帰結が戦争であってみれば、その過程はやはり間違っていたのです。たとえ軍部による権力掌握が合法的に行われたのだとしても、それで正当化できる殺人はありません。

 教育と研究の基本におかれるべきは倫理です。戦争に至る歩みを肯定する姿勢からは、平和と共存の未来社会は決して生まれないでしょう。(2001.4.5)

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