【短編】住吉カナデの場合ー高見たか子の診療記録ー
#1
真っ白い部屋。
目を開けると
天井も壁も、真っ白い空間にいた。
「うううっ」
頭にモヤがかかってる。
寝ていたんだろうか。
目の奥が重い。 ゆっくり目を閉じて思い出す。
何を
してたんだっけ…
「…さん、カナデさん」
誰か、私をよんでいる。
はい、と声をだそうとしたのに、
のどがカサっとなっただけだった。
起きあがろうとちからをこめる。
「うっっ」
身体が異常に痛い。
「まだフラつくかもしれないんで、気をつけてくださいね」
誰かが私の背中を支えた。
「うっ」
なんとか起き上がると、頭に色々な装置が付いている事に気づいた。
思い出した。
思い出してきた。
私は、病院にいるんだ。
「カナデさん、大丈夫ですか?」
大丈夫?大丈夫って何が?頭はモヤモヤだし
身体は痛いし、大丈夫じゃない。
「・・・だ、だい、大丈夫です・・・」
身体に力が入らない。制御できない。
「眠くなるお薬がまだ効いてると思うので、しばらく座ったままでいてくださいね。」
私は…眠らされて、頭にいろんな装置をつけられて…実験?何かの実験台?
いや、違う。
わたしは、患者だ。
「夢は、覚えていますか?」
夢???夢………
「夢を、見ましたよね?」
夢……
モヤが少し薄くなってきた。
「夢、、ですか」
「そうです、夢」
笑っていた。私は、夢の中で笑っていたような気がする。
「ふふふふふふふふふ」
瞬間、目が覚めた。
ざぁっと全身に鳥肌がたった。耳の奥でピアノの鍵盤全部が鳴ったような音がした。
身体がびりびり痺れている。
手も足も、気づいたらぶるぶると震えていた。
あの子がいた。
夢の中に、死んだはずのあの子がいたんだ。
#2
「カナデ、宗ちゃんの手、つないであげててね」
ああ、またこの夢だ。
夢をみながら、そう思った。
その意識が働くのに、毎回、わたしは夢で同じことを繰り返すのだ。
ぎゅっと弟の手を握り直した。
「宗次郎、ぜったいお姉ちゃんの手、離しちゃだめだよ」
そう言って宗次郎のほうを向くと、
宗次郎は私をにっこり見返した。
こころの奥がざわりとした。
弟を守らなきゃという思いと、くすぐったい感じと、
こんなに可愛いからお母さんは宗次郎のほうが好きなんだという 少しの嫉妬で
ざわりとしたのだ。
『カナデは、お姉ちゃんなんだから』
そう、私はお姉ちゃんなんだから、宗次郎を守らなきゃいけないのに
嫉妬するなんて……
手がゆるんでいたのかもしれない。
左手に意識をうつすと、
何もなかった。握っていたはずの手が、無くなっていた。
…いない……
「そうちゃん!?そうちゃん︎!!宗次郎︎!!」
遠くにいた。
間に合わない。
また、間に合わない。
「宗次郎︎!!」
目を開けた。薄暗い。
見慣れた天井だ。時計に目をやる。3時3分。
テレビの電源の赤い光が浮かんでいる。
ひや汗をかいていた。
涙が出てきた。悔しい。まただ。また、この感情。
涙を
とめることができない。
私が9歳になったばかりのある日。
3歳になる弟を見ておいてと頼まれた。
少しだけ買い物してくるから、
公園で遊んでて、と。
木の上の鳥に気を取られている間だった。
見たことがないような、鮮やかな色だったのだ。
「逃げだしちゃったのかな」
ふと気がつくと弟がいなかった。
「宗次郎!!」
見知らぬ子供たちが遊んでいるだけだった。
宗次郎は公園を出て、事故にあって
そして死んだ。
その後の記憶は
しばらく途切れていて
次に覚えているのはお母さんが泣きながら私に言ったこと。
「カナデも、お骨、拾いなさい」
私は、白い小さい小さい骨を拾って壺にそっと入れた。
#3
真夏の日差しがアスファルトにあたって
跳ね返って目に入ってくる感覚がある。
目から紫外線が入って
日焼けすると聞いたことがあるけど、
気にしていない。
日焼け止めも、焼けると痛いから塗るという程度だ。
色白のかわいい友人を羨ましいとは思うけど、
日焼けしたって、色白だったって
私の人生には関係ない。
私は
ただ、惰性で生きている。
別に、今すぐ死んだっていい。
そんな思いで今まで生きてきた。
樋口先生に会ってからは、少しだけ、考え方がかわった。
「じゃあ、今日のカウンセリングは以上。
しかし、毎日暑いね。カナデくんは体調、崩してない?」
あまりクーラーをきかせていないからか、
おでこにうっすら汗をかいて、樋口先生は私をみた。
カウンセリングルームにも、セミの鳴き声が聞こえてくる。 もうすぐ、夏が終わる。
「私は大丈夫です・・・あ、悪くはないです。
普通というか」
「うん、普通、良し」
「ふふ。樋口先生は、熱中症とか、大丈夫ですか?
あ、この大丈夫ですか、は良いですか?」
樋口先生には、なるべく、『大丈夫』という言葉を使わずに会話をしようね、と最初の頃に言われた。
「あはは。そうだね。ぼくのことを心配しての大丈夫ですか?だから、良しとしよう」
「ふふ。はい」
「僕も、普通かな。最近は?何してるの?」
「んー、普通に会社行って、家帰って、テレビみて、寝る。ですかね」
「何か面白い番組、あった?」
「興味もったのは、イヤーワーム?でしたっけ?それについてやってる番組があって」
「脳内で、音楽が流れるあれだね」
「ふふ。そうです、あれです。
朝からサザエさんの歌ずっと頭に流れてるんだよね〜とか日常で話すことありますけど、深く考えたことなんてなくて。イヤーワームっていう名前があるんだって初めて知りました」
「不思議な現象だよね。原因なんかはわかってないからね。人間の脳みそってのは、未知だね」
「ほんとに。そうですね」
樋口先生はわたしに、
ただ生きる、というのは生物にとって正解だと言ってくれた。
惰性で生きる私を、肯定してくれた。
ただ、植物も動物も、生きようとして生きている。日光を効率よくあびにいったり、タネをとばしたり、他の動物から命をもらったり、奪われまいと守ったり。
だから、生きることを否定して欲しくはないな。
僕たち人間も、生きるために生まれてきたんだと思うんだ。
そう、言ってくれた。
目的を持って生きようとしなくてもいい。生きるために生きてほしい。
その言葉は、私に新鮮な空気を吸わせてくれた。
「カナデくん。夢は、まだ見続けてるんだね?」
樋口先生は何かを考えながら、ふと、私に聞いてきたように思えた。
「あ、はい・・・」
「夢を見ることが日常を送るのに支障をきたしているなら、ひとつ、紹介できる治療があるけれど、聞いてみるかい?
夢を、プログラミングする治療なんだ」
#4
真っ白い部屋。
壁も床も天井も、真っ白い空間。
真ん中に背もたれがついた椅子がひとつ。
壁側に、先生の机と椅子と、本棚がひとつ。
夏なのに、なんだか寒々しく感じる部屋だ。
助手らしき人が
パイプ椅子を二脚運んできた。
「すみません、まだ色々足りないものだらけで」
「いえ・・・」
促されるままに、パイプ椅子に腰をおろした。
「私は、医師の高見たか子です。神経科学者でもあります」
「先生は、脳活動の研究における第一人者でもいらっしゃいます。あ、すみません、私は助手の山口です」
たかみたかこ…変な名前…
樋口先生に勧められたから来たけど、まだ始まったばっかりの治療なんて…
「住吉カナデさん、ですね。樋口先生から引き継いでいます。よろしくお願いします」
「あ、よろしくお願いします」
「脳活動の研究、といってもぴんとこないかもしれませんが」
と、高見先生はわたしの目をみた。
「今、あなたが脳内で感じていることがあると思います。 それを表に出す、出さないという判断や、あるいはその判断を出すに至る 感情、身体の反応、そういったものを全て脳が一瞬で処理するわけです」
一瞬ぎくりとした。
子供の頃から、感情や考えを表に出さないようにしてきたのに、見透かされているような気になった。
私の目の奥のほうまで覗いているような、高見先生の黒い眼球から視点が外せなくなった。
「大丈夫ですよ、
あなたが何を思っているか、考えが読めてるわけではないですから」
脇にじわりと汗が出てきた。
「ただ、人間は、無である時間はほぼない、ということです。特に覚醒している間は、常に何かを考えたり感じたりしているものなので。
無意識で何かをしたという言葉を日常で使うかもしれませんが、 これと脳活動は別、ですね。何も考えていない、感じていないようでも、 脳は様々な情報を常に処理しているといえます。
そういった脳の情報処理を研究しています」
高見先生は、いかにも研究者という様相で、黒い眼球のまま、淡々と話している。
「あの・・・
それと、治療とどう関係があるんでしょうか・・・」
「そうですね、治療について話をしましょう」
「あ、はい・・・」
「私は、夢による精神治療を行なっています。
PTSDや過去のトラウマなどを、夢によって治療していくというものです」
精神治療……
「夢は、
主に記憶を整理するための脳の活動です。
記憶のみならず、それに紐づいた感情などの精神面も整理するための 脳内活動であることが研究で明らかになりました。
その整理がうまくつかない、整理できる許容量を大幅に超えた場合に、
精神に障害、弊害をきたすことがわかっています」
精神に、障害………
「刺激、信号、夢と同様の脳活動をコントロールするためのデータを脳に ダイレクトに送り込むことで、
夢の中の登場人物、ストーリーを完全にコントロールできるようになり、
これをアメリカではすでに精神障害の治療に使用して5年以上経ちます。
日本での実用化はまだ始まったばかりですが、
アメリカではしっかりと結果も出ているのでご安心ください」
「はい・・・」
「現実では受け入れ難いことを、夢で現実かのように具現化しますので、
その方によって、あう、あわないというのがあると思います。
今日は、アメリカでの症例を記載したものをお渡ししますので、
よくお読みいただいて、治療をお受けになるか、判断してください」
わたしは、
精神障害の患者、なのだと、再認識した。
先生は、分厚い資料を私に差し出した。
受け取りながら、
他人の症例を読むなんて、それだけで心が重くなりそうだと感じた。
ふと見ると、先生の黒い眼球がこちらを向いていた。
とっさに私は目を伏せた。
この時の私は、
まだ気づいていなかった。この治療が、再び私の心に影を落とすこと
そして高見先生の、黒々とした目が感じていた孤独を。
#5
柔らかい光に包まれている。
何のにおいだろう。懐かしいにおい。
お母さんが台所にいつもどおり立ってる。
晩ご飯の匂い。
いつも通りなのに、なんで、懐かしいなんて思うんだろう。
「カナデ、そうちゃん、まだ寝てる?」
宗次郎を見ると、寝息をたててコタツで寝ている。
「お母さん、コタツで寝かしたら風邪ひくじゃん」
「ん、でも気持ちよさそうに寝ちゃったからさー」
「もう。宗次郎、おきな。ご飯だよ」
「うーーん・・・」
「ほら。お手手洗っておいで」
「おしっこ」
「うん、行っといで」
「お姉ちゃんも」
「えー、もう4歳でしょ?ひとりでできないの?」
「できるけど」
「じゃあ行って来な」
トテトテと歩いていく宗次郎に、少しイラッとした。
「カナデ。誕生日どうするの?お誕生日会する?」
「したいけど、宗次郎がじゃましそうだからいい」
「なんでー?そうちゃんもまぜてあげればいいじゃない」
「やだよ。あたし、もうすぐ10歳だよ?4歳の弟があたしの友達とまじれるわけないじゃん」
「じゃあ、いつもカナデ、そうちゃんの面倒見てくれてるし、その日はお母さんがそうちゃんの面倒みるから、誕生日会、やったら?」
絶対、結局わたしが面倒みることになるに決まってる。ふだん働きに出ている母は、いつも忙しそうにしていて宗次郎をわたしに押し付けるのだ。
「いいよ。やらない」
「じゃあ、カナデ、プレゼント何がほしいか考えときなさい。欲しいもの、買ってあげるから」
10歳の誕生日……何もらったんだっけ……
「おねえちゃん」
宗次郎がトテトテともどってきた。
手がびしょびしょだ。
「なんでふかないの?もう…」
台所にかけてあるタオルをとって、わしわしと手荒く宗次郎の手を拭いた。
「ありがとう」
ニコニコと笑う宗次郎を見て、いつまで私はこの子のお守りをするのだろうとげんなりした。
「おねえちゃん」
「何?」
宗次郎は恥ずかしそうに後手に何か隠している。
「おねえちゃん、おたんじょうびおめでとね」
そういうと宗次郎は、何かを差し出した。
「おねえちゃんとそうちゃんとおかあさん」
そう言って宗次郎が差し出して来たのは、肌色のクレヨンでぐるぐると円が描かれた画用紙だった。
顔なのか、黒い豆粒がみっつ、肌色の円の中に描かれている。
「私とお母さんの顔なの?」
「うん。そう」
そういいながら、宗次郎は大きいビー玉みたいな眼球をキラキラさせた。
誰だろう。誰かに似ている。
「そうちゃん、あたしの誕生日、今日じゃないよ。来週」
「らいしゅう?」
「そう」
「じゃあ、らいしゅう、またあげるね」
「またくれるの?」
何か、急に可笑しくなった。去年も、何回もたんじょうびおめでとうと言って、アメやら集めてるカードやらを何日かにわたってプレゼントしてくれたのだ。
「そうちゃん、誕生日は一年に一回だから、誕生日の当日に、プレゼントは一個だけでいいよ」
そう言ってわらうと、宗次郎もつられて笑っていた。
「ふふふふふ」
その瞬間、世界がぐるんと一回転した。逆さまにどこかに落ちていくような感覚におそわれた。
こわい。目を開けたくない。
ずっと温かい光の中にいたい。
宗次郎の、手を、離したくない…!
私は、落ちて落ちて、谷底まで落ちた。
谷底だと思ったのは、あたりが真っ暗だからだ。
何も見えない。誰もいない。
目を、開きたくない。
「カナデさん」
誰かに名前を呼ばれている。
「カナデさん」
嫌。私は、このまま目を閉じていたいの。
「カナデさん」
瞼の外側が明るくなってきた。
私は、恐る恐る目を
決して開きたく無かった目を
ひらいた。
真っ白い部屋
天井も壁も、真っ白い空間にいた。
頭にモヤがかかってる。
寝ていたんだろうか。
目の奥が重い。 ゆっくり目を閉じて思い出す。
何を
してたんだっけ…
「カナデさん」
まだ、誰かが私をよんでいる。
はい、と声をだそうとしたのに、
のどがカサっとなっただけだった。
起きあがろうとちからをこめる。
「うっっ」
身体が異常に痛い。
「まだフラつくかもしれないんで、気をつけてくださいね」
誰かが私の背中を支えた。
「うっ」
なんとか起き上がると、頭に色々な装置が付いている事に気づいた。
思い出した。
思い出してきた。
私は、病院にいるんだ。
「カナデさん、大丈夫ですか?」
大丈夫?大丈夫って何が?頭はモヤモヤだし
身体は痛いし、大丈夫じゃない。
「・・・だ、だい、大丈夫です・・・」
身体に力が入らない。制御できない。
「眠くなるお薬がまだ効いてると思うので、しばらく座ったままでいてくださいね」
私は…眠らされて、頭にいろんな装置をつけられて…実験?何かの実験台?
いや、違う。
わたしは、患者だ。
「夢は、覚えていますか?」
夢???夢………
「夢を、見ましたよね?」
夢……
モヤが少し薄くなってきた。
「夢、、ですか」
「そうです、夢」
笑っていた。私は、夢の中で笑っていたような気がする。
ふふふふふふふふふ
瞬間、目が覚めた。
ざぁっと全身に鳥肌がたった。耳の奥でピアノの鍵盤全部が鳴ったような音がした。
身体がびりびり痺れている。
手も足も、気づいたらぶるぶると震えていた。
あの子がいた。
夢の中に、死んだはずのあの子がいたのだ。
#7
あの子がいた。
夢の中に、死んだはずのあの子がいたのだ。
あの子は。宗次郎は。
3歳で死んだのだ。
私が9歳の時だ。
その後迎えた10歳の誕生日などなかった。暗い、暗い絶望の淵ぎりぎりで
母は、いつも泣いていた。私はそれを目の端でとらえては、トイレにこもって泣いた。
あの子は、死んだはずなんだ。
「何、これ・・・」
やっと出た言葉だった。
肺の奥の方からやっとの思いで声を絞り出した。
いろいろな感情や記憶がぐるぐると全身を巡って整理できない。
ふと右を、みた。
黒い眼球がこちらを向いていた。
誰かに、似ていた。
辛いも、苦しいも、悲しいもなく、涙が頬を伝っていくのがわかった。
勝手に目から、壊れて閉まり切らない蛇口からぼたぼた水が垂れるように
ぼたっ、ぼたっと頬をつたったものが胸元に落ちた。Tシャツが濡れて、 肌が汗と一緒に湿った。
空気を吸ってばかりで、うまく吐き出せなかった。ひゅー、ひゅーと喉が 鳴って、過呼吸で舌がぴりぴりした。
感情はぐちゃぐちゃなのに、それ以外の状況は、まるで他人が観察しているように俯瞰でとらえられた。
私は、フラフラするのを我慢して立ち上がり両足に力をこめた。胃の奥のほうの黒い塊を吐き出すように黒い眼球を真正面から見て、言った。
自分でも、予想していないくらいの大きい声だった。
「何、これ・・・なんなの!
どうかしてるんじゃないの!死んだ人間を夢に見せて・・・シナリオ通りにしゃべらせてるの?夢見させて、現実から目を逸らせって? それで死んだ人間が帰ってくるならいくらでもやってやる! でもね、亡くなったの。 燃えて骨になったの!私はそれを拾ったの! いい加減にして・・・こんな無神経な・・・こんなことしたって誰も報われない。私も!死んだ人間も!」
私は吐き捨てるように言うと、急いで部屋を出た。 部屋を出て、廊下を走った。
膝かっくんをされながら走っているみたいに、何度も膝がかくんかくんと折れた。
逃げ出すように部屋を出たが、すぐ
荷物を置いて来たことに気づいた。
私は、廊下の先にある、ロビーのソファに腰をおろし、何度か、大きく息をはきだした。
子供のころ、トイレで泣きすぎて何度も過呼吸になった。
息を吐き出せば治ることを学んでいた。
どうしよう
考えても仕方がない。
荷物を、取りに戻らなきゃ。
呼吸をなんとかととのえると、顔をあげた。
一瞬ぎくりとした。
黒い眼球の先生が、すぐ近くにいた。
「お荷物・・・」
そういうと、ひと席あけたとなりに、
先生は腰をおろした。
「大丈夫ですか?」
「・・・・・・樋口先生は」
「はい?」
「樋口先生は、大丈夫、という言葉をなるべく使わずに会話しようね、 とおっしゃいました・・・
日本人は、大丈夫ですか?と聞かれたら、大丈夫でなくても、大丈夫ですと返してしまうから・・・
本音が隠れてしまうから、だそうです」
「なるほど・・・不勉強でした。すみません」
「べつに・・・樋口先生の言葉を思い出しただけです」
「樋口先生のおっしゃる事は最もだと思います。私も、いつも勉強させていただいてるんですよ」
「・・・そうですか・・・」
「私もね」
「・・・はい?」
「私も、パートナーを亡くしました。
私は、アメリカで脳と夢の勉強をしていました。渡米する前に、当時お付き合いしていた方にお別れしましょうといったら、じゃあ結婚しましょうと言われて。
私のせいで一緒にアメリカに行くことになったんです」
「・・・私の、せいで?」
「私のせいでアメリカに行くことになって、 事件に巻き込まれて、死にました。
私のせいです。私が、ひとりでアメリカに行くべきだったんです」
「・・・別に先生のせいじゃ・・・ないんじゃないですか」
「樋口先生も、そう仰います。でもそう簡単に割り切れない、カナデさんもそう思いませんか」
私も、心のどこかで、
宗次郎が死んだのは自分のせいだと思っていた。
ふと空(くう)を見上げて先生は、一瞬迷ったようにみえた。
すうっと息を吸うと、口を、開いた。
「私・・・あの人の・・・夢を、見るんです」
「・・・はあ」
「寝ている時ではなく、ここで」
「・・・え?ここで、ですか?」
「そうです、さっきの、装置をつけて」
#8
私があの夢を見始めたのは
母が死んでからだった。
母は、宗次郎を失ってから、毎日泣くようになった。
靴下が片方見当たらないと言っては泣き、炊飯器のスイッチを入れ忘れたと言っては泣き、
宗次郎の命日と誕生日には、何も言わずに延々と泣いた。
母は、毎日のように私に
宗次郎の分も好きなことをやってね、宗次郎ができなかった事をやってね、
宗次郎の分も楽しんでね、宗次郎のためにも長生きしてね、
宗次郎のために
宗次郎のために
私はその呪文を聞くたび、
息を吐きだせなくなった。
母は、私が心の支えだと言った。
家事の大半は私がやった。
母は、本当に私がいないと生きていけなかったのだと思う。
母を病気で失った途端、
私の存在価値はなくなった。
母に尽くすことが、
宗次郎への贖罪になる気がしていた。
「高見先生はなぜ、
旦那さんの夢を・・・見るんですか?・・・見たいんですか?」
私は、弟の夢はできるならもう見たくなかった。
宗次郎は、小さな手で私の手を握り私に微笑みかけると
柔らかくしっとりとした小さな手の感触を残したまま、
私の手を離して遠くへ行ってしまう。
私は夢の中で泣き、
覚めてからも泣いて、
その繰り返しの毎日だった。
私は、
宗次郎から解放されたかった。
「私は・・・・・・」
高見先生は、文字通り、
重い口を、開いた。
「私は、
事件後も日本に戻る事はしませんでした。
目的を遂げずにアメリカを去れば、
何のためにあの人が死んだのか、
あの人の死が無駄になるような気がしました。
何が何でも、脳と夢の研究を成功させて
日本に持ち帰るんだと、
それだけを目的に生きてきました」
それが、高見先生なりの
贖罪、だったんだろうか。
「そのうち、知らず知らずのうちに
私の中の、あの人が、薄まっていったんです」
「薄まる…?」
なんだろう、薄まる、とは?
この先生は、
まわりくどいところから
説明を埋めていかないと、
人に物事を伝えられないんだろうか。
すぐに理解できない表現をされて
私はそんな事を考えた。
「毎日、空を見ていたんです」
「空、ですか」
「はい。毎日研究に自分を追い込んでいたんですが、何も考えない時間を作らないと、思考が滞ってしまう事に気づきました。
だから、空を見ている時は何も思考しないようにすると決めて、同じ時間に空を見ることにしたんです。
そうすると、毎日、違う空、なんですね」
「はあ・・・」
「1日たりとも、同じ空の日はないんだなと気付きました。そして、明日はどんな空だろう、と思うようになりました。つまり、私は、毎日明日に向かって、未来に向かって進んでいるんだと、自覚したんです」
「それは・・・いい事なんじゃないですか?」
「いい事、なのかもしれませんね・・・でも、同時に気づいたんです。私の中の、あの人が、薄まっていっていることに」
「すみません、薄まるっていうのは、その…
忘れる、ということですか」
「そうですね・・・そうかもしれません」
やはり、まわりくどい。
「研究がうまくいくのと引き換えのように、あの人が薄まったように感じました。
あの人の顔の細部が…はっきりと思い出せなくなりました。声も、思い浮かぶ声が、本当にあの人の声か、わからなくなってきました」
映像や録音も、写真すらないってことだろうか…
でも、人間の記憶なんて、もともとそんなもんじゃないんだろうか。
毎日会ってたって、人の顔の細部なんて覚えてるものだろうか。
思い浮かぶ声が本当かなんて、合っていても違っていても、確認する方法なんてそもそも無いんではないだろうか。
「私は、
あの人を忘れないために、夢にみているんです。
私のせいで死んだのに、私が、あの人を忘れて良いわけがないんです」
何と、返していいかわからなかった。
はぁ、とか
へぇとか、相槌をうったのかも覚えていないが、
何か変だなと、高見先生の話を聞いて
違和感を覚えた。
もしかしたら、他人から見れば私も、
「変」なのかもしれない。
「わかりません、私には・・・私は、宗次郎の、弟の夢から解放されたいです。でも、それは忘れる事だとは、思いません。顔の細部が思い出せないことが、その人を忘れることと一緒だとは、思えません」
「カナデさんは、夢に弟さんが出てきて、どう感じましたか」
「どう?・・・・・目が覚めたときは、ムカつきました。気分悪いって思いました」
「夢の中では、どうでした」
「夢の中では・・・・・・あれもプログラミングってやつですか」
「あなたがどう反応するかは、プログラミングされていません」
「・・・そうですか」
私は…夢の中で、笑っていた。
優しい光に包まれて、幸せだった。
「治療には、終わりがあります。私は、私自身いつ終わらせるべきか・・・わからないでいます」
「なんで私にそんな話をするんですか」
「・・・何ででしょうね。感情というのは、不思議なもので、脳で思考して自分で判断をくだせない、それよりも先に衝動として出てくるものですね。思考と反する行動をも伴わせるのが、感情、だと思います。感情のまま、 カナデさんと話しはじめたので、私も、なぜこの話をしたのか、判断ができません。すみません」
「・・・いえ・・・」
私は、さっき見た夢を思い出していた。
夢の中で、目を開けたくないと思った。
ずっと柔らかい光の中で、宗次郎の手を、離したくないと
確かに感じた。
「カナデさん、治療でなくとも、あたたかい夢の中で弟さんやお母さんを見たくなったら、ご相談ください」
黒い眼球のこの人は、
やはり人の心を見透かしているんだろうか。
「先生。先生は、前に進んでいい人なんじゃないですか。あえて夢を見て、逆行する必要なんて、ないんじゃないですか?旦那さんはそれを、望んでるんですかね?」
そっくり自分に言葉が返ってきた。
いつまでも宗次郎にとらわれても、
宗次郎が喜ぶとは思えなかった。
私は、荷物を掴むと立ち上がった。
出口へ歩きかけて、振り返った。
「私も……毎日、空、見てみます。失礼します」
こちらを見上げている先生の眼球に
光が入って、ビー玉みたいだった。
ぺこっと軽く会釈をして、早足で去った。
出口を出ると、
幾分か夏の日差しが和らいでいた。
日が落ちかけていた。
空を見上げた。
綺麗だと、そう、思えた。
【完】
※この作品はオーディオブックの脚本として作成しました。舞台脚本のスピンオフでもあります。ぜひそちらもご覧ください♪
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