つながっているとされることについて
思い返すと数年前まで、十年あまり暮らしてきた部屋に対し「この場所と自分の間に必然的なつながりはまったくない」という感覚があって、ここはどこなんだろう、どうして自分はここにいるんだろうなんて思いにとらえられることもしばしばだった。
小学生のころは朝遅くになってからようやく家を出ていたものだ。通勤通学もごみ収集も庭先の花壇への水やりも終わった時間帯の住宅地は、人の生活の気配は濃いのに誰の姿もない。そこをひとりで二時間くらいかけてぶらぶら歩くのがさみしくて、幽霊になったみたいで、心地よかった。高校もたいして通わず、それは朝の電車に乗るのがこわかったからでもあるけれど、ともかくやっぱり、駅から学校までの住宅地区をへんな時間にひとりでふらつくことにはなって、そんな通学路の途中に、どうしてそんな場所を発見したのかは忘れてしまったが、お気に入りの場所があった。あるアパートの、施錠されていない空き室である。誰もいてはならないはずのフローリングに大の字で寝る。地図にない場所にいるような、透明人間になったような、爽快感があった。
こんな自分である。「自分の部屋」という感覚がぴんとこないのは、へんなことではないだろうと勝手に決め込んでいた。ところが。
昨年末、十年以上暮らした部屋から引っ越すことにした。そしてその部屋で、「人と部屋のむすびつき」をキーワードにした展覧会を行った。ルームツアーをモチーフにした映像と、旧居の土地の歴史をリサーチし、地図資料を交え、年表と映像で構成したものがメインの展示作品だった。
家財の大半は新居に運びこみ、旧居と新居どちらにも家賃を払いながら展覧会の準備を進めていた。旧居には展示に必要なものたちのほか電気ケトルとインスタント食品、あとは布団だけがあり、ほかになにもない。そこに寝泊まりしていたが、「十年以上暮らしてきた部屋にいまもいる」という実感はなかった。
ただ一方で、一晩も過ごしたことのない、電気も水道もまだ通っていない新居に、数分で済むような、ちょっとした用のためだけに訪れると、「自分の部屋に帰ってきた」という感じが強くしたのだ。意外だった。特定の空間に対して、「自分の場所だ」と納得する感性が自分のなかにあることは想定していなかった。
どうしてそう感じるのか考えてみると、たぶん、一泊すらしていない新居にはしかし、読んできた本や、描いてきた絵があるからだ。自分の心が乗っかっているものが集まった場所だからだ。本や絵は持ち運べるから、自分の場合は、自分の場所を空間的に移動させることができた、とも思った。つまり、景観などの地理的な状況や近所の人との交流などが自分自身の心と結びついていたのなら、自分の場所は動かせない。
住んでいるとは言えない状況の新居に意外な馴染みを感じてから思い返すと、十年以上暮らした部屋に対して、「ここはどこなんだろう」と感じることが、ここ最近なかったことにも気がついた。その離人的な感覚が収まったのはいつからだろう。思いあたるのは声のことで、誰かと電話しているときふと、「あれ、自分っていま、自分の声を出してるな」と、生まれてはじめて発見し、動揺し、感動した夜があったのだ。そして同時に、それまで、自分の声がどんな声なのか把握できていなかったことを思い知った。確かにずっと、喋る相手やシチュエーションによって、ぜんぜん別の声を出しているような感じはしていた。
どういうことなのかはわからないが、とにかく、それまでばらばらだったなにかがつながって、「自分」というひとつのまとまりがより強固になったタイミングが数年前にあり、それによって自分の声の質への違和感や、特定の空間に自分が存在していることに感じる奇妙さといった、ある種の根源的な不安が軽減されたんじゃないかと思う。
ほかの人のなかでこの現象が起こっている現場を目撃することがある。
デッサンという技術を人に教える仕事もしている。たまには画材を借りて、生徒さんの目の前で実践してみせたりもするが、基本的には、言葉を尽くして説明をするのだ。デッサンに挑む人のまわりでピーチクパーチク話をすると、「なるほど!」と腑に落ちた反応をみせてくれるときがある。このとき、自分のかけた言葉が相手に届いたという気はしない。言葉のキャッチボールなんて言い回しがあるけれど、ボールを手渡すことに成功したような気はしないのだ。本人のなかにすでにあった物事らが勝手につながったという印象しか受けない。自分の視点にこだわっている最中に他人がかけてきた言葉のせいで、うまい具合に気が散ると、自分が答えを知っていたことに気がつく。靄が晴れ、うれしい。
より安心して、自分のことをひとつのまとまりとして感じられるようになったことで、自分と空間のつながりへの不安感も軽減された。もしかしたら、ひとまとまりとして実感できる圏域が広がれば広がるほど、さらにおおきなものとのつながりを感じることができるようになるものなのかもしれない。それは、本人にとっては気持ちのいいことだろうとは思うけれども、どこかあやうい気もする。ごまかしがなければ、そんな感覚は成立しないんじゃないか。自分がそこまで到達していないからこそ、このように訝しがっているという可能性もある。
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