写真でナニモノかであるために
先日、僕よりも少し若い友人に「写真の世界でなにものかであるためにどうすればいいでしょうか?」と聞かれた。
ええっ!
写真の世界でナニモノでもないオレに聞くのか?
と思ったけど、ナニモノでありたいと思い続けていたことは間違いなく(“思い続けていた”と過去形と言い切ってよいのかは疑問が残るところだが)、その頃の自分に足りなかったものを話せば良いのだろうか。
寝ても覚めても考えることは「写真」という時は間違いなくあった。
カバンにカメラ(CONTAX T3、コニカレコーダーなど)は必ず入っていて、フィルムも何本か入れていた。会社からの帰り道、ここを通って帰ろうとかいつも考えていた。夕方の空がきれいなマジックアワーの時間を逆算しては会社を出る時間を決めていた。
当時住んでいたのは葛飾区の金町だったので、新小岩、南千住・山谷、浅草、小岩、荒川沿いなど会社からの帰り道は東京の東側が多かった。週末は関東エリア50km圏内をくまなく歩くために、週末はどこ行こう!!なんて考えては仕事の時間を過ごした。ある日は桐生、ある日は大原、ある日は水海道、行川アイランド、常陸大宮などの街を歩いては写真を撮り歩き、DPE屋で現像しては月1回の須田一政ワークショップに備えるのだ。
これは須田一政塾の塾生を募集するときのテキストだが、ほんと「どっぷり浸かっていた」なと、今になっても思う。ホームページや例会の運営も手伝っていたので、須田さんとは多いときには毎週のように例会だったり、打ち合わせと称して会っては飲みに行っていた。
そうしたつながりもあったりして、写真を道具として表現を志す人とはかなり知り合うことができた。今では写真家として高く評価される人もいれば、大学や専門学校などの教育機関で教える人もいる。国内外のプライマリーギャラリーで作品が取引されたりする人もいる。広告写真家のように大きなスタジオや豪邸のような居宅を構えるような経済的に成功した人は少ないけど、写真のイメージや内容で自らの存在を覚えてもらえる人たちだ。
そういう人たちの多くは写真に命を削っていた人が多かった。具体的に言えば安寧とは無縁の生活というのだろうか、会社員のような定職にはつかず、多くは複数のバイトでカツカツで食いつなぎつつ、それでも撮影旅行などの時間を惜しまず、写真集や個展のような大きな投資を躊躇なくできた人たちが多かったような気がする。
翻って自分はどうか?必要以上に「コスパ」「タイパ」を求めた人生ではないと思う。だけど「命に近いものを失ってまでも」何かを成就する「覚悟」を決めていかたというと、これは極めて怪しい。
なので写真で「ナニモノ」かであるために必要なもの「答え」は「命を削ってでも成し遂げる覚悟」なのだろう。でもこれって、言葉でいうと本当に虚しい。だって、お前、命賭してないじゃん。
と自分が自分を一番知っているのだから。
映画「アマデウス」で、モーツアルトの才能に激しく嫉妬し、その才能を潰そうとするサリエリでさえモーツアルトを潰すためには「神に一生純潔を誓う」、覚悟を決めているのだ。
サリエリにすらなれない私は「ナニモノかになれるメソッドがあればオレが1番知りたい」と若い友人には答えるほかはなく、これを書いている夜中、とても悔しく、情けなく、悲しい気持ちが込み上がってくる。
まぁでも人生の半分をとっくに折り返した身の上では、ひと晩眠ればこうした思念は灰と化して、朝はそれなりに気持ちよく迎えられるだろう。そうした灰の蓄積がなにものかとは別の何者に変化する可能性がないわけでもない。そんな触媒にならないかと都合よく考えている。