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通底はしても説明はしない

昔、とある編集プロダクションに出入りをしていて、そこのボーヤとして仕事というか、雑務をもらっていたことがある。

いわゆるデータマンとして、就職活動中の若者にインタビューしたり、一週間の溜まった新聞を一気読みして変ネタを集めたり。何百通というアンケートを集計したり(これは辛かった)そうしたまとめたデータを次の人に送って(アンカーというのだが)その人が記事をまとめるお手伝いをしていたのです。

憧れはライターというか、ノンフィクション作家。
目標は、ズバリ沢木耕太郎でした(こういうやつ多かったと思う)
「人の砂漠」「深夜特急」これらの作品が懐にズシーンと沁みました。身の程もわきまえないガキというのは、こういうのを言うんでしょう。焦るようにお金を工面して、大学4年の秋にチベットで海外デビューをします。その後、就職を諦め、バックパッカーとしてインドやネパールなどに出かけては何かになったつもりで旅をしていたのです。

フリーライターとはいいつつも、そこからの収入はほんと小遣い程度なので、メインの収入は当直バイト。それをいくつか掛け持ちしながら暮らしていました。もちろん取材して自分の作品を作る余裕もなく、ライター(データマン)の仕事ですらバイト(生活)に圧迫され、仕事を減らし何をやっているのかわからなくなりました。

当然、親からは怒られます。何をやっているんだと。
頼むから就職してくれ、と祖母に懇願されたので悪徳不動産やさんで1年働き、その後、今でも働く業界誌に身を置くことになります。それはいいとして、沢木耕太郎がポルトガルの取材記事(後の「壇」につながるものなんでしょうな)がある雑誌(マルコポーロだったと思う)に載っていて、写真を掲載していたのですが、それがかっこいいのですよ。

それまで写真って記事の添え物の印象しかないのだけど、沢木耕太郎の写真は本文とはほとんど関係がなく、写真がテキストから独立していた。だけどポルトガルの写真なので、テキストの直接的な説明はしていないけど、その写真があることでテキストの背面世界が豊かになるという意味では通底はしているのですよ。その写真とテキストの関係性が面白いな、と思ったことが写真を取り始める切っ掛けとなったのは間違いがないと思う。

このノートに駄文を書いているのは、そうした沢木耕太郎の影響ではなく、仕事でほぼ文章を書かなくなったから。仕事の内容がここ10年で変化し、いや仕事で文章を書きたくないから変化させたのが正解か。大根の桂剥きも手を休めるとうっすーーく剥けなくなるように(ホントかどうかは知らん)ほんと書かなくなると書けなくなるんですよ。

今でも展示があると、それに関連した説明ではないテキストを添えたくなるのは、沢木耕太郎になりたいという思いの残滓なのかもしれません。

ここの写真は通底おろか関係なくなってすらありますが。


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