短篇『じゃがいものスープ』
反射的に目を閉じた。暗闇。視覚を失い聴覚が研ぎ澄まされた。そのとき初めて店内BGMが流れていることに気がついた。いままでは店内の賑わいにかき消されていたのだろう。曲は知っている。エド・シーランの“Thinking out loud”。しかし歌っているのはエド・シーランじゃないようだ。曲が切り替わると、こめかみから顎の方へ水滴が流れるのを感じた。何滴も何滴も。恐る恐る目を開けた。その瞬間こめかみから流れる水滴が左目に入りかけたので、左目だけ閉じて右目で正面に座る彼女Y子の方を見た。幸いY子は左利きであるから、水の入ったグラスを持って正面の私の顔にかけようとすれば、当然に水は右側に逸れる。おかげで私の顔から胸の辺りにかけて左側だけびしょ濡れだ。では何が幸いなのかと言えば、いま私とY子はレストランに来ているのだが、私の右側は店員や他の客の通路になっていて、左側の窓からは午後の恵比寿を散歩する優雅なおばさまたちと犬種の分からない毛の無い犬の散歩を眺められるようになっている、が、店内に案内されてすぐ、Y子が日差しを嫌ってブラインドを下げていたから、店内にも外にもびしょ濡れ姿を晒さずに済んだわけである。もしかすると、Y子はブラインドを下げた時から水をかけてやろうと考えていたのだろうか、ブラインドを下げたのは外からびしょ濡れの私が見えないようにとの配慮だったのだろうか。私はとりあえず謝った。それがいまのところ思いつく最善の手段だった。
「ごめん」
Y氏はすかさず私の方に置いてあったグラスを右手で取って、私の右半身に狙いを定めて水をかけた。どうやらブラインドを下げたのは配慮ではなかったらしい。私は全身びしょ濡れになった。すると、空気の読めない、いや、読む必要などないのだが、店員の一人がランチコースのスープを私とY子の分を持ってやってきた。
「コースのじゃがいものスープになります。お熱いのでお気をつけください」
両目を閉じていて店員の顔は見えなかったが、とんでもなく悪人面をしているに違いないと思った。先週ユニクロで買ったばかりのカシミヤのセーターに水をかけられて正直かなりショックではあるが、今回ばかりは私に非がある、これくらいの水なら百歩譲って受け入れよう。ただ、じゃがいものスープとなると訳が違う。もし私が火傷でも負うことになればお前も共犯だ。「お熱いのでお気をつけください」とはよく言ったものだ。これ以上ない宣伝文句。今のY子なら私を痛めつける為に二個でも三個でも買ってしまうだろう。スープだけは何としても避けたい。まず目を開ける必要がある。右手の甲で両目にかかった水滴を拭って前髪を払い、両目を開けてY子を見た。怒りの中に若干の悲しみが濁ったような複雑な表情をしていた。私は謝ることしかできなかった。
「ごめん」
避ける準備はできている。Y子が右手でカップを持てば私は左に避ける、Y子が左手でカップを持てば私は右に避ける。しかし、いらぬ心配であった。結末はもっと悲惨であった。Y子の顔にはもう怒りも悲しみもない、何かを振り切ったようである。ただ一言、
「さようなら」
Y子が店を出て行く時、私は何もできなかった。追いかけてびしょ濡れ姿を他の客に見られるのも嫌だった。何より、Y子を引き留めて和解できたとしても、私だけびしょ濡れなのはどうも納得できない。結局、テーブルの上には空のグラスが二つ、じゃがいものスープが入ったままのカップが二つ残った。先ほどの店員がやってきて、新しいおしぼりをくれた。大学生だろうか、人懐っこい顔をした背の低い青年だった。その青年は何か言いたげで、乾いたおしぼりを渡した後すぐには離れなかった。なるほどと思い私はその青年に言った。
「悪いですが料理はキャンセルでお願いします。代金はもちろん支払いますので」
「かしこまりました。スープはどうなさいますか」
スープ。いまこのスープを飲んでしまえば、今後じゃがいものスープを見るたびに今日のことを思い出してしまうのではないか。じゃがいものスープのせいでY子のことを忘れられなくなるかもしれない、、、
私は青年にスープは置いておいてくれと頼み、おしぼりで顔を拭いてから、セーターにかかった水を吸えるだけおしぼりに吸わせて、じゃがいものスープを一気に二つ飲み干して素早く会計を済ませた。店を出ると外は土砂降りだった。ブラインドが下がって外が見えなかったうえ、客の会話とエド・シーランの曲で外の音は遮断されていたから、店内にいる時は全く気が付かなかった。傘は無かったが構うことなく駅へと走った。私はいつだって気がつくのが遅いのだ。出来る限りの全速力で雨の中を駆け抜けた。間に合うといいが。
駅に着くと改札の前は大勢の人々で溢れていた。構内アナウンスが流れている。どうやらこの雨の影響で遅れが出ているらしい。改札横には、切符の払い戻しのための列が出来ていた。そのすぐ側に、電子掲示板を見上げ私と同じくびしょ濡れになったY子の姿を見つけた。