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短篇『曇天』

僕は大事なものを失くしてしまった。何処へ行ってしまったのか検討もつかない。もうこの世に存在していない可能性だってある。大事なものというのは、僕自身のことである。決して自己の喪失などといった話でない。正真正銘僕自身、肉体を失ったのである。探しに行きたいのだが、肉体が無いため、もはや「身動きが取れない」どころの話ではない。何も見えないし何も聞こえない。色々と考えたものの早々に万策尽きてしまった。

それでも悪いことばかりではなく、幾つかの興味深いことに気がついた。僕はこれまで、脳が肉体を操り、肉体が感じ取ったものを脳が処理することで思考や感情を生み出しているのだと考えていた。それがどうであろう、今の僕は肉体を失ったが、こうして考えることができている。僕が肉体を失った時、脳も心臓も肉体の中に収まっていたはず、それなのに、いまの僕は考えることができている。脳で考えているわけではないのであれば、僕は何によっていま考えることができているのだろうか?

実のところ、僕は記憶をいくつか失っているようで、特に肉体を失う直前のことはあまり憶えていない。唯一、最後に見た光景だけは静止画となって脳裏に焼き付いている。まあ脳なんて無いのだが。静止画の先はよく憶えていない。白い光に包まれて、視界が真っ白になったかと思えば、少しの光も見えぬ漆黒へと塗り変わった。

それは近所の中学校だった。空には厚い雨雲がかかり日中とは思えないほど辺りは暗く、土砂降りの中グラウンドにいた大勢の生徒たちが校舎に駆け込んでいるところだった。この時期の天気の気まぐれに、生徒たちも嫌気がさしているところだろう。灼熱のような暑さが一生続くような気がして、海にでもプールにでも行ってみようものなら、今回のように土砂降りの雨にやられてしまう。雨だけならまだしも、雷が厄介だ。あのピカっと光って、ゴロゴロっと鳴るやつ。

その瞬間はっとした。雷に打たれたような衝撃が走った、肉体を失った原因となるもの、僕の肉体を奪い去ったもの、それはまさしく雷である。そうに違いない。憶測に過ぎないが、これはかなり信憑性の高いものだ。僕は雷に打たれたのではないだろうか。視界が真っ白になったのは雷によるもので、そのあと気を失い視界が真っ暗になった。こうやっていま考えることができているのも、実際に肉体を失ったのではなく、肉体が落雷による機能不全を起こし、脳だけが機能しているために、あたかも肉体を失ったように感じているのだとすれば説明がつく。そうだ雷が僕に当たったのだ。

大事なものはすぐ側にあったわけだ。しかしだ、そうと解ればいよいよ絶望的である。肉体を失ったのであれば、肉体を取り戻せさえすれば万事解決だったのだ。しかし、肉体を失ったわけではなかった。

そうか、死ぬのか。

もうじき脳の活動限界がやってくる。雷に打たれてそれほど時間は経っていないのだろう。気がつけばもう何もかも忘れていた。最後に見た光景もぼやけきっていてよく解らない。そしていよいよ全てを忘れて、自己の喪失と共に死を迎えた。 

午後四時三十分
東京都×区○町二丁目 M中学校 正門付近

昼の悪天候は嘘のように晴れ晴れとしていて、下校中の子どもたちがワイワイキャッキャして賑わっている。傘を持った少年が何かを見つけ、人差し指のかわりに傘の先端で見つけたものを指した。

「まじで雷落ちてる!」

他の子供たちも興味津々でそっちを見ている。

「うわ!やば!」

落雷の影響で正門の側に立っている電柱の一つが真ん中のところで折れてしまい、上半分が塀を乗り越えてグラウンドの中に倒れ込んでいた。そのせいで電線も切れてしまい、電力会社が速やかな配電工事を行っているところだった。生徒が工事の邪魔にならないよう教員らが生徒を誘導している。

人差し指がわりに傘を使っていた少年は、どうしても折れてグラウンドに倒れ込んだ電柱の上半分の悲惨な姿を一目見ようと、教員の目を盗んでグラウンドの方へ駆けて行った。少年は恐る恐る近づいて電柱の側に来ると、そのあまりの惨たらしい様に気持ち悪くなって、すぐさま正門の方へ引き返した。電柱と同じく雷に打たれ地に落ちた、生前は「鴉」と呼ばれていたであろう黒いものを見つけたのだった。

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