私の人生②高校時代〜黄金期〜

  さてさて。高校受験は無事に終了しました。地元の公立に入学!おめでとう私㊗!進学校でもなければバカでもない、真ん中か中の上の高校。「合格者は点数を見て来て」と言われていたので、取りに行きました。感想は、「よく引っかかったな…」でした。7割(500点満点中350点)取れていなかったのです。340点くらい。英語に救われた感。

  入学後最初のテスト、つまり中学の理解力を試すもので、唯一貼り出しがありました。以後はない高校でした。順位30番まで。国語や英語は、名前がありました。笑い話ですが、当時数学はクラスで最下位。バランス悪すぎ!高1の間、数学や理科は赤点パラダイス。担任の先生が数学担当でした。数学大好き❤な先生は「分からない気持ちが分からない」方だったのでしょう。にしても最初の進研模試で数学8点は今でも覚えてます。もう笑うしかないですマジで。しかし、やっと高校生になって提出物を期限内に出す、ということは出来るようになっていきました。何でか今でも分からないのですが、高1最後のテストは首位でした。…どうやって取ったん?私?これは今でも謎です。
  ここから、副題の通り、人生の黄金期が始まります。

  高2になり、文系クラスへ。当然だわ!まだ数学とは付き合っていかねばなりません。しかし、数Ⅱ・B担当の先生は非常に素晴らしい先生でした。
「文系選択=数学苦手な生徒多し」を理解してくれていました。そのため徹底的に基礎を学ばせて貰いました。文系にも数学が得意な友達はいました。頼りまくりました。「理解したい」という意欲が湧いてきたのです。職員室に通って担当の先生がいなければ「…数学の先生、いらっしゃいませんか?」と聞くほどに。周りの方のおかげで、模試では理系の人を差し置いて学年4位(全国偏差値60ちょい)にまでつけるようになりました。数学楽しいじゃん✨高1の時点では大学ではなくネイルの専門学校にしようかなと思っていましたが進路変更。中学、高校と美術部だった私は西洋美術史を学びたいと大学進学を考えはじめました。定期テストでは、全体で最後まで首位を守り続けました。だって1度トップ取っておいて落ちるなんて、誰だって悔しいじゃないですか。ずっと、学力においてだけでも、この高校の中だけでも、追いかけられる存在でいたかったのです。あ、恋愛のれの字もない高校生活でした。別に良かったんです。それで。

  『怖い絵』シリーズ(中野京子・著)を読み漁っていたので、その影響でしょう。とても面白いです。オススメです。
  そしてその頃、具体的に進路を決めようと色んな大学を調べました。流石に国立で私の学びたいことをやるには力が足りません。能力のバランスの悪さをカバーしきることは不可能でした。文系3教科で受けられるところを探し、無謀にもW大学を第1志望に書き続けました。そして返って来た模試の結果…A判定。私よりも学校中の先生方が「マジで!?」という反応でした笑。その頃から私はどんどん怪物となっていきます。承認欲求が高かった私は、先生方の期待に応え、自分の可能性を広げるべく、勉強に没頭しました。学年主任の先生は、厳しい古典の先生でした。よく呼び出しを食らうようになりました。内容は、
「うちの高校の実績が欲しい」「ここの公立行かなくても受けてくれない?」という依頼でした。
  私は塾に行ったことがありません。それでも、ギリギリで入学したはずの私は母校では考えられない程の成績を出せるようになったのです。ちなみに、模試を受ける度、全国、県内、校内、と偏差値が出ますね。英語の最高偏差値は校内です。校内ですよ校内ですからね?(念押し)…102、です。母親が何これって言って大爆笑。3桁?wwwそんなん見たことない何これwwwみたいな。
 こぼれ話。前回書いたものには必ずいじめが関わっていました。毎日自転車通学で体力はあっても運動の能力そのものが上がるわけではありません。それでも、やはり高校生となると皆大人になってきて、高々体育の授業で罵声を浴びせてくる人はいませんでした。正直驚きました。それが「普通」だということを知りませんでした。友達も沢山出来ました。有難いことです。

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高校時代の1枚。田舎の高校生感半端ないな。

  そして遂に高3。家でのストレスはやはり存在しました。私の学力とかそんなもので家庭での居心地は変わりません。「家を出たい」…明確な望みが芽生えました。母校は進学校じゃない分、大学、専門、就職…様々な進路を認めていました。私がここまで勉強に励んだのも、目立って贔屓されたからです。完全私立文系クラスへ進み、その時点でもう数理とはおさらば出来る親切スタイル。
  宝塚ファンの私は、D大学に狙いを定めました。関西の方が良さげ。確実に茨城からは通えないですからね笑。勿論オープンキャンパスにあちこち行って決めました。田舎育ちの私にとって、京都は都会と違い、大変住みやすく魅力的に映りました。大学の雰囲気そのものもいいな、と思い、赤本買って傾向と対策を掴んでいきました。勉強と言うよりゲームのスコア伸ばすぞ、みたいな意識でした。
  模試での成績は上がる一方でした。センター試験直前の模試では、3教科とはいえ、全国2桁順位。知らない先生からどこ目指すの?と聞かれ知らない先生から「良かったらあげる☆」と古典の問題集頂いたりしていました笑。

  センターも9割以上点が取れて、一般で受けた志望校に見事合格。滑り止めも受かりました。そして、最後はずっと頼まれ続けた「実績を残すこと」を考え、何だかんだ欄に書き続けていたW大学の願書を提出しました。傾向と対策を全くしなかった大学より、有名だし母校で受かった人はいないと聞いていたからです。油断するまいとD大の赤本も解きつつ、W大の赤本にも手をつけていたため、先生方に大きな恩を感じスーパースターになりたい私は、受験会場に向かいました。
  そして、合格。恩返しは成功しました。清々しい気持ち…だったかと言うと実は逆に黒い雲が私の心を覆っていました。誇らしい気持ちはありましたが、私の友に恵まれ、先生からも頼りにされていた、この黄金時代はW大に合格したことにより、幕を閉じました。

  ここから先は、受験後の話を独立した形で書き記す予定です。発達障害やアスペを疑っていた私は、大学卒業したら自殺する気満々でした。日本の受験システムには合っていただけ、ということを理解していて、そして、社会で使い物にならないことを予想していたからでしょう。このように、元々メンヘラ思考はあったのですが、受験後から大学入学まで、私に一体何が起こったと言うのか……。

③に続きます。

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