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【短編】この世は万事紙一重


「あの、お兄さん」
 突然呼び止められたので、荒木は体をびくっとさせた。何を考えるでもなく、午後の県庁前通りを歩いていた最中に、いきなり声をかけられたので驚いた。
「えっ、あ、はい?」
 とりあえず返事をしてみる。が、声の主がどこにいるのかわからなかった。なので足を止め右左とキョロキョロしてみる。えっえっ、どこだ?
「お兄さんお兄さん、こっち」
 ん、こっち?慌てて首を振り左下を見ると、そこに男がいた。古びた商店の脇にあるエアコンの室外機の横にしゃがみこんで、こちらを見上げている。50代くらいだろうか。全体の身なりは、控えめに言ってあまりよくない。元々はそこそこ小綺麗な服だったのだろうが、時間に引きずり回され、風雨にタコ殴りにされた結果、あちこち破れたり汚れたりしている。彼自体が醸し出す雰囲気もかなりくたびれていて、何より目つきがちょっとアレだった。
「わっ、そこでしたか。…あの…なんでしょう?」荒木は恐る恐る尋ねた。
「お兄さん、500円持ってませんか」
「500円…ですか。ああ、まぁありますけど…」
「そうですか。そしたら私にくれませんか?」
 やっかいなことになったなぁと荒木は思った。混じり気なし、全会一致、紛う方なきやっかいである。
「いやぁ、それはちょっと、はは…」
 荒木はやんわり断った。うるせえひっこめという言葉を選択肢として持っている人間とは真逆に位置する根が優しい荒木は、適当な愛想笑いをふりまくことにより、このやりとりをうやむやな形で終わりにしたかった。いわばうなるアルファードで砂埃をひっかけてから去るのではなく、カゴ付き自転車をそっとこいで、この場からそっと逃げようとした。
「そうですか…だめですか」がっかりした様子の男。だがすぐに気を取り直して続ける。「でもお兄さん、ちょっと私の話を聞いてくれませんか」
「え…なんです?」と不安げな荒木。
「要はですね、お兄さん。500円さえあれば、万事解決というわけなんです。本当に万事、あれもこれも、それもどれも、そう!500円さえあれば、この世界から悩みはあらかた消えるんです!愛すべき我らの地球は、もうその丸い頭を抱えなくて済むようになるんですよ!」
「えぇぇ、500円でですかぁ…」
 当然荒木はそんなまさかと思った。彼の持ち前の愛想笑いを突き破って、怪訝な表情も顔をのぞかせた。
「まあ聞いて下さい、聞いて下さい。これは私が考えに考え、温めてきた計画なんです」という男の目つきは一段とアレになる。「まず第一に、栄光へと続くはじめの一歩として、私はその500円でタバコを買います。断固とした決意とともに、タバコを買います!」
「えぇ…タバコって…」荒木のやさしさでも隠しきれない、不信感よこんにちは、である。「ただあなたが吸いたいだけですよね…そんなことのためにお金は…」
「違います違います!これは私のためではありません。人類のためのタバコ、これから始まる偉大な歴史に火をつけるためのタバコなんです!」
「はぁ…。じゃあ…あなたは吸わないんですか?」
「いいえ、吸います。もちろん吸いますとも。あ、ちょっと待って、待ってください!」
 荒木がかすかに帰路へと、もしくはこの会話の圏外へと、体の重心を移そうとしたのを見逃さず、男は荒木を引き止める。腕を掴まれた荒木は眉をハの字にし、困ったように言う。
「だめですよそんなの…。それに、だいたい今、タバコは500円じゃ買えないんじゃないですか?」
「ああ、それについてはですね、セブンイレブンで一箱まるまる買おうってんじゃないんです。私にはタバコ吸いの知り合いがいましてね。まあ知り合いと言っても、今は疎遠となっているかつての悪友、という感じの男なんですけどね。彼はタバコを切らすのが何より嫌いなもので、いつも少々の在庫を持っているんです。だから彼に頼んで、500円分ばら売りしてもらうんです」
「はあ、そういうことですか…。いや、でも、だからって…」
「お兄さん、話はここからです。ここからですよ。そのタバコを持って、今度は別の知り合いのところへ行きます。名は湿気木 吸造 し け も く  きゅうぞう、私はもっくんと呼んでます。ん?あ、そうだ。名前といえば、あなたの名前はなんていうんです?聞きそびれてましたね」
 荒木は名前を知られていいものか迷ったが、仕方なく答えた。
「あ…荒木 三太です」
「ふむ、荒木さんですか。改めまして、どうぞよろしく。ちなみに私は酒樽 住男さかだる すみおと申します」と言って男が手を差し出してきたので、荒木は日常のしきたりに促されるように、反射的に握手をした。
「仲間内ではだるさんとか呼ばれてます。で、そんなことはどうでもいいんですけどね、500円分買ったタバコを持って、もっくんのところに行くわけです。もっくんというのがこれまた大のタバコ好きでしてね。だからもっくんに450円分のタバコをあげるんです」
「はぁ…。じゃあ残りの50円分を…」
「私が吸うわけです。でもこれは贅沢な嗜みとしての喫煙じゃないんです。これはあくまで私の気持ちを静めるためなんです。いよいよこれから大事業がはじまるわけですから、必然的にストレスがかかりますからねぇ。事業を成功に導くためには、気持ちを落ち着ける必要があるんです、どうしてもね」
 そう言ってエアコンの室外機の天上を手のひらで軽く叩き、トンッという音をさせることで話に確信を添える。そしてだるさんは続ける。
「でね、荒木さん。450円分の礼を尽くして、私がもっくんから引き出したいのは何だと思います?何だと思います?ずばり言ってしまえばね、ミニカーなんですよ」
「ミ、ミニカー?」
「そう、彼がいつも手押し車の中に入れている、食べかけのパンとかまだ使えるティッシュとかと一緒に入れている、ミニカーです」
「えぇと…そんなものもらって、一体どうするんですか」
「ははは。そうですよね、荒木さん、わかりますよ、仕方がないことです。要はもっくんもあなたも、あのミニカーの真価に気付いていないわけです。あの43分の1サイズの真っ赤なフェラーリF1の真価にね」だるさんはニヤリとしながら続けた。「あれにはね、ミハエル・シューマッハのサインが入ってるんです。黒い台座のところに白いマジックでね」
 荒木は素直に驚いた。
「おおっ、それはすごいじゃないですか!僕レースとか全然詳しくないけど、そんな僕でも知ってる超有名人のサインですものね」
「すごいでしょう?」
「はい、すごいです。でも、なんでそんな貴重なもの、そのもっくんって人は持ってるんですかね」
「んー、まあそれは、たぶんどっかで拾ってきたとか、なんていうか、気付いたらポケットに入ってたとか…もっくんはあの手の細々としたおもちゃが好きでね。見るとほっとけない性分なんですよ。まあでも、そのへんの経緯については私にもわからんです!どこで手に入れたかなんて、詮索したいとも思いません!重要なことはただ一つ、もっくんは450円分のタバコとミニカーが、しっかり釣り合うと考えるだろうということです」
 そしてだるさんはそのミニカーを然るべきところで売却すれば、数万円を手にすることができるだろうということを説明した。それではもっくんを騙すことになるのではないかという荒木の懸念には、世界に調和をもたらし新時代の幕を開けるためだと考えれば、その犠牲は犠牲としてはすこぶる小さく、十分許容範囲であるという理屈を返し、尚且つ、
「もちろん、もっくんには祝儀として、メビウスを1カートン買ってあげますよ。誕生日プレゼントとかいう名目でね」という説明を付け加えた。
 手にした数万円(ミニカーの保存状態等から見て、二桁はいきそうにないので、ざっくり言って数万円)を頭の中でエア札勘定してみて、うんうん頷くだるさん。
「さて、次の段階ですよ。私はこのお札たちの行き先をもう知ってます。お札たちにふさわしい場所をもう知ってるんです」
「へぇ、それはどこなんです?」
「ペットショップです」
「ペット…」と荒木。
「ショップです」とだるさん。
「ペットショップで犬を買うんですよ。ああ、もうやめてください荒木さん。何を言いたいかはわかってますよ。もちろんこれは私の個人的な趣味のためじゃありませんからね。これは子々孫々のための買い物です。私がしっかりと見据えているのは、購入した犬と一緒に歩む、黄金時代への散歩道です」
 だるさんの語りに熱がこもる。だが荒木はちょっと気になったので聞いた。
「でも、タバコの時と同じ質問で申し訳ないんですけど、今どき犬って数万円で買えるものなんですか?」
「荒木さん、もちろん独自のルートです。私が独自に開拓した取引先から購入するんです。私の友人に乱獲寺 密男らんかくじ みつおというヤツがいましてね。彼は、らんちゃんは、大の犬好きなもんで、それはそれはたくさんの犬たちと暮らしているんです。はっきり言って、たくさんいすぎてちょっと困ってるくらいです。らんちゃんは思いやりの人で、犬たちの意志をひたすら尊重した結果、ちょっと増えすぎちゃいましてね。なので買いたいという人がいれば、ものすごく安い値段で売ってくれるんですよ」
「へぇ〜、そうなんですね」と納得する荒木。
「だからまず、らんちゃんから犬を買います。犬種とかはまぁ、その場で見て決めようと思ってます。で、買ったらその次です。その次は、犬のしつけ教室に行くつもりです」
「ほほぉ、しつけをするんですか」
「んー、するといえばする、しないといえばしない、ですな。ははは」なんだか少し恥ずかしげに曖昧な答えをするだるさん。
「といいますと?」
「よし、はっきり申しましょう。犬はあくまでとっつきであり、足がかりであり、橋頭堡です。いいですか、荒木さん。私はね、かわいい犬と大きな愛を胸に抱いて、しつけ教室に乗り込みます。そしてですね、私はですね、そのしつけ教室の先生と結婚します!」
 高らかに宣言するだるさんと、当然びっくりする荒木。それは一体どういうことなのか。だるさんの説明によればこうだ。
 そのしつけ教室は50代くらいの女性が経営していて、数年前からかなり繁盛している。その証拠に駐車場には派手な白ベンツが停まっているし、客足は常に途絶えることがない。が、ある足だけは途中から、教室の敷居を跨がなくなった。それは女性の旦那の足である。旦那は去年亡くなったのだ。よって、女性は未亡人になったのだ。そうなってから何ヶ月か経つわけだが、女性の様子には当然、どこか寂しげなところがある。噂では経営方針をめぐる衝突などもあり、旦那とはあまりうまくいっていなかったそうだが、それでも連れ合いに先立たれ、寂しげだった。そんな彼女の様子にだるさんの心が揺さぶられる。
「放っておけない、まずそう思いましてね。そして彼女が独身に戻ったという事実が、僕の恋心に再び火をつけたんです」
 再び、というのが肝心である。実は彼女はだるさんの高校時代の同級生なのだ。そしてその当時には、もう少しでいい仲になりそうになるところまでいったとか。なのでだるさんは確信している。今再会すれば、恋が再開することになる。今自分という青春が舞い戻ってくれば、彼女の心はとても詩的なことになると。
「そして何より」とだるさんは続ける。「実際家、実務家として冷徹に言わせてもらえば、彼女の財産は人類を未来へと導く階段となります」
 だるさんが得ている情報によれば、富はしつけ教室の中だけにとどまらなかった。彼女の父親は建設業で財をなした大変な資産家で、軽井沢に別荘を所有し、骨董品の蒐集でも有名だった。
「そして何より」と再びだるさんは続ける。「彼女は一人娘であり、お父上はご高齢にあらせられます。たいへんご高齢にあらせられます」
 ここでだるさんの表情がくっと引き締まる。彼の内部で立ち上がった重大な何かが、彼の顔つきを変える。大きな使命を自覚したような、荘重な声音に変わる。
「つまり私が言いたいのはですね、守護を求める人々のための王国は、常にゼロから建国されるわけではなく、多くの場合、相続という形で受け継がれていくものである、ということです。王冠や財産とともに、人々を守護する義務も、ともに受け継がれていくということです!」
 だるさんの演説は一気に、そして突如としてその熱を増し、荒木を瞠目させる。何かに取り憑かれたようだった。
「そしてその義務をこの身に負うことを、私は望んでいるのです!人民の生命や、自由や、財産を、すべての悪辣な意図から防衛するという仕事を、私は望んでいるのです!そのための地位を、この婚姻が与えてくれます。彼女への愛が与えてくれるのです。そして与えられたからには、私は私のすべてを与えます。何百倍、何千倍にもして、与え返します!」
 これらをすべてひっくるめての、だるさんの恋心だった。ちょっとした感情の動きで浮かれたりデレデレするのとは違う、もっと大きな視野に立った恋。人民の安寧という目的の枠内でする、政治家としての恋だった。そんなだるさんの歴史絵巻のような恋バナを聞きながら、荒木は黙って頷いていた。この婚姻の意義を語るだるさんの気迫に圧倒されていた。偉大な目標に向かってだるさんが進める一歩一歩の重厚感に、神妙な面持ちで答えていた。要はこのあたりから荒木は、だるさんが本当に「何者か」であるのではないかと、感じ始めていた。
「そして、さぁ荒木さん!ここからですよ、ここからです。真に力強い跳躍はね!」

 こうして結婚によりまとまった資本を手に入れてからのだるさんの歩みは、まさに快進撃だった。しつけ教室と企業買収を二本柱にしての、広範な事業展開が行われてゆく。まず近隣のしつけ教室やペットショップを買収し、傘下に収める。義父のつてで建設業に進出し、数々の大型工事を受注してみせる。そして同じく義父が残した大量の骨董品と古美術商とのコネを頼りに、オークション会社を立ち上げ、業界の風雲児となる。同時にペットビジネスの全国展開を開始し、その過程で中規模ホームセンターを次々と買収。「ペットがいるところ、酒樽氏の名あり」という状況になり、業界全体が仰ぎ見るような地位を占めるまでになる。ここで順調に膨らむ富をどすんと投じ、駅前にマンションを建てる。これが大人気、即満室で、いわば街にそそり立つ延べ棒となる。さらにその延べ棒を少し溶かして次なる投資を開始。かつては栄えていたが今は寂れている、日本中の温泉旅館やホテルを大量に買収する。もともと旅好きだった妻を現地に派遣することにより、そのセンスでそれら観光施設の立て直しに成功、これまた富が湧き出る大浴場となる。そして湧き出た富は留まる所を知らずに四方八方に流れていく。中古車販売、ソフトウェア開発、製麺工場、タクシー会社、造園業、農機具メーカー、チェーン展開のカフェ、学習塾…。買収と新規事業と立て直しと急成長の嵐。酒樽グループの名前は日本経済界に雷鳴のように轟くこととなる。一体どこまで大きくなるのかと、当然誰もが固唾をのんで注目している。が、ここでだるさんは大きな決断をする。誰も予想できなかった驚きの決断をする。なんとだるさんは、グループを全て売却するというのだ!そしてその売却で手にした金を元手に、投資銀行を設立するというのだ!実はだるさんは最初からこれを狙っていた。目を疑うような額の金が動く金融の世界に足を踏み入れることを、グループ経営をしつつ虎視眈々と狙っていた。冗談のような桁数を、冗談ではなく真面目に数えるようになる時を待っていたのだ。そしてついにその時がきた、と判断し、それを実行に移した。だるさんの進軍は止まらない。実際に投資銀行を設立してみせると、辣腕として名を知られていただるさんの下には優秀な人材がすぐに、そして大勢集まり、その団結と向上心に支えられ、次々と投資を成功させてゆく。驚くべきことに、わずか2年で日本最大の投資銀行となり、早くも東京では窮屈だと感じるようになる。ダルサン&サンズ(それが彼の金融グループの名前である)はロンドンのシティ、続いてニューヨークのウォール街に進出し、巨大かつ華麗な取引を立て続けに展開、世界の金融界を瞬く間に席巻する。逆境に思えた金融危機に際しては、窮地に陥った名門・老舗を次々に買収・救済することによって、さらにその体躯を爆発的に膨張、拡大させた。彼の金融帝国は地上の多くを征服し、だるさんの名は星とともに天に広がり、彼の富は世界の大部分を覆うほどになった。こうして彼の成功は現代の伝説となり、その一挙手一投足はそのまま叙事詩となり、彼のキャリアは生身の人間によって演じられた神話となったのだ。

 ここにいたってだるさんは、ただただ圧倒されている荒木に対して、厳かに告げる。
「つまり私はね、荒木さん。努力に努力を重ね、寝ずに働いた結果、こうしてロックフェラーやロスチャイルドと肩を並べるまでになったんですよ」
 荒木は口が聞けなかった。口をぽかんと開けたままだった。あまりの偉業を前に、言葉がなかった。
「この段階で、私には全てが可能です。やりたいと思えばなんだってできます。こう言っちゃなんですが、金、ありますからねぇ。でも荒木さん、私がその金を使って、その金が持つ力を使ってやりたいことはただ一つなんです」
 目も眩むような大財閥を前にして、荒木はやっとのことで声を振り絞り、聞いた。
「あの…やりたいこととは…なんですか?」
「おや、荒木さん。私、最初から言ってるじゃありませんか。私が実現させたいのは世界の調和です、新時代の幕開けです、黄金時代の到来です」
「ああ…なるほど、なるほど、そうでしたよね!ふむ…でも、具体的にはどうやってやるんですか?差し支えなければ、お聞かせ願えませんか?」
 だるさんことダルサン&サンズ総帥は、何故だか少し自嘲的な表情を浮かべながら言った。
「もしかしたら荒木さんは、あっと驚くような方法で、私がそれを実現させようとしているとお思いじゃないですか?それこそ魔法のような、杖を一振りするような、おとぎ話のような方法でね。だとしたら荒木さん、私という人間を知ってください。私って本当に散文的で退屈な人間でしてね。どこまでいっても現実的で、幻想を信じないたちなのです。だからこの世界についても、おめでたい人達が頭の中に描くような、クレヨン画的ユートピア幻想は抱いていないのです。世界中のみんなが一斉に武器を置いて、泣き笑いしながら抱き合うみたいな幻想は、どうやったって描けない。そんな空想の翼を持たない、大地に縛り付けられたような現実主義の私ですから、私が言う新時代も、私が持つ力で実現させる黄金時代も、次のような具合になります」
 総帥は厳かに続ける。大理石像のような、知性に満ちた表情で。
「一言で申してしまえば、これは力の均衡政策です。並び立つ各勢力の力を拮抗させることによって、お互いに手出しできないようにするのです。そうやって出来上がるお互いに身動き取れない緊張関係こそ、現実的かつ実現可能な平和と私は考えます。具体的に言えば、勢力Aが強大化して、勢力Bを飲み込もうと侵略的意図をあらわにした場合、私は勢力Cとして勢力Bに加担します。そうすることによって勢力AとBC同盟の力は釣り合いが取れ、勢力Aはうかつに手を出せなくなるわけです。そう、私は万事この調子で進めたいと思っています。これこそ我が財閥の力の正しい使い方だと思っています。というか、こうしたいがために私は不眠不休でここまで富を築いたわけです!国家間の話で言えば、現状日本は恐竜たちに囲まれたミッフィーちゃんみたいな状態なので、恐竜たちはこの憐れなミッフィーちゃんを丸呑みにしたくてうずうずしています。よって私はこのミッフィーちゃんに財閥の富を注ぎ込み、言ってみればダルサン&サンズ印のプロテインをがぶがぶ飲ませ、恐竜に育て上げます。そうすることで、周りの恐竜たちの口から垂れていたよだれを止めるのです。溢れ出た野心を引っ込めさせるのです。が、今度は逆に恐竜日本が強大になりすぎてしまい、周囲の小国を圧迫しだしたとします。自分の周りにいるミッフィーちゃんたちを見て、よだれを垂らしだしたとします。そしたら私は即座に、そして迷わず、日本から金を引き上げます。我が社のプロテインを取り上げます。そして必要なら、日本の脅威にさらされるそれらの小国にダルサン&サンズの富が高々と積み上げられ、恐竜日本に対する盾となることでしょう。これに関しては私が日本人であるということは関係ありません。私情は挟みませんよ!また、大財閥間、大企業間における関係でも話は同じです。ロスチャイルドとロックフェラーが揉めたらその時点で弱い方に付きますし、もし両者が結託してダルサン潰しを仕掛けてきたら第四第五の財閥に声をかけ、同盟を結成して二大財閥に対抗します。ビッグ・テックについても同じこと、石油メジャーについても全部同じことです。私は世界中のあらゆる場所、あらゆる局面において、力の均衡を実現させます。各勢力から剣を取り上げることはしませんし、基本的にはできませんが、振り上げられた剣を静止させるのが私の役目です。要は私はバランサーなのです。育てに育てた怪力を使ってやりたいことはただ一つ、バランシングなのです。ああ荒木さん!私は現代のビスマルクになるのです!」

 こうして計画の全貌が告げられた。ダルサン&サンズによる勢力均衡政策とそれによる平和の実現を、荒木三太は目の前に見るようだった。
「す、すごい…あなたはすごいことを僕に話してくれました…」
 体を震わせながらそう言う荒木に、総帥は伏し目がちで微笑む。
「こういうわけですから荒木さん、この計画は是非とも実現させなければならないんです。是非とも、そしてすぐにでもね」
 そう言われ、大きく頷く荒木。
「しかしそれには…わかってくれますね?」
 何のことかすぐにはわからず、荒木は首を傾げた。
「まず第一歩を踏み出すために、必要なものがありました。歯車が回転をはじめるために、必要なものがありました。そうでしたね?」
 そう言われ数秒の間をおいた後で、荒木は思い出した。
「ああ!そうだ500円だ!そうでした、そうでしたよね!」
 総帥は黙って微笑み、ゆっくり頷いた。荒木は慌ててポケットに手を突っ込み、財布を取り出した。
「はい、これ、500円です!どうぞお受け取りください。そして人類のために使ってください。新時代の幕を開けてください!」
 差し出された500円玉は、総帥の掌の中央に置かれた。そしてゆっくりと指が閉じられ、上着のポケットの中にしまわれた。総帥は荒木の目をまっすぐ見て、感謝の意を述べた。
「荒木さん、私の計画に賛同してくれてありがとう。これがどれほど重大な意味を持つか、わかってくれてありがとう。私はあなたのことを決して忘れない。あなたが人類史に対して行った偉大な貢献を、忘れることは決してないでしょう」
 ぶんぶんと首を横にふる荒木。
「いえいえ、何をおっしゃいますか。僕にできることはぜんぜんなくて、恥ずかしいんですけど…でも、あの、とにかくがんばってください!僕応援してますから!で、僕でも力になれることがもしあったら、また声をかけてください!ほんとに、何でもやりますから!」
 そう言って荒木は興奮気味に手を差し出した。総帥は快くその手を握り返し、握りあった手を二人は何度か上下に揺さぶった。力強く、力強く。
「ありがとう荒木さん、本当にありがとう。では、私はそろそろ行かねば。一刻も早く、仕事にとりかからねばなりませんからね!時は待ってくれませんので!」
「はい、お元気で!がんばってください!」
 荒木はいつまでも手を振り、颯爽と去ってゆく総帥の背中を見つめていた。総帥の歩みは、これ以上なく確固としたものに見えた。

 金融グループ総帥への第一歩を踏み出しただるさんは、早速タバコ吸いの旧友のもとへ行き、タバコを500円分買いたいと告げた。旧友は引き出しから在庫を引っ張り出し、新品を一箱開けた。そしてそこから500円分、計算して売ってくれた。旧友との会話もそこそこに、次はそのタバコを持って、もっくんこと湿気木 吸造氏のところへ向かった。そこで450円分のタバコを渡して、もっくん所有のフェラーリのミニカーと交換するためだ。順調である。なかなかの滑り出しである。未来への階段を着実に昇っていく感覚に気分が高揚してきただるさんは、一旦落ち着くためと、祝いの一服のため、先程買ったタバコを取り出した。ばら売りだったため手ぬぐいに大事に包んであったので、手ぬぐいをほどき、一本つまみ、口元に持っていき、火をつけた。
「すぅーーーーっ、ふぅ〜〜〜〜〜」
 うまかった。涙が出るほどうまいタバコだった。吸い込んだニコチンがだるさんの胸を揺さぶった。吐き出した息で、進軍を待つ軍旗がはためいた。そして立ち昇る煙が、大事業の開始を告げる狼煙のようで感慨深かった。人類史に残るこの一服の中で、だるさんは改めて誓った。自分がこの世界に新秩序を打ち立てる、もう誰も力によって押し潰されることのない、どんな強大な存在でも好き勝手に振る舞うことのできない、新たな秩序をこの世界に打ち立てる、と。

 が、ここで思いもよらぬ事態が起こった。だるさんがタバコを吸う姿を、車の中から一人の女が見ていたのだ。彼女の名は灰皿 狂子はいざら きょうこ。環太平洋紙煙草鎮火婦人会という、その名の通りの活動をする団体の会員だった。それもただの会員ではなく、団体内でも一目置かれる程の急進的な会員だった。七つの大罪に喫煙を加え、八つの大罪にすべきと考えているタイプの人物だった。そんな灰皿 狂子に、だるさんは一服する姿を見られてしまったのだ。しかもまずいことに、喫煙所でもなんでもない道端で一服する姿を。
「こぉのバカヤローーーー!!!」
 そう叫ぶと灰皿 狂子は、乗っていた車のアクセルを目一杯踏み込んだ。そしてだるさんの方に向けてハンドルを切った。
「キエェェェェェェェェェェェ!!!」

 車はとんでもない勢いで歩道に突っ込んだ。同時に、この世の終わりかと思うような激突音が辺りに轟いた。
 数秒後、何から上がっているのかわからないような粉塵やら煙やらがあたりに立ち込めだす。飛び散った破片や残骸が地面に転がっている。
 車は植え込みをぶち破ったあと、ブロック塀にめり込んでいた。車内はエアバックでギュウギュウ詰めになり静かだった。そしてほんの少し前まで楽しげに赤々と燃えていたタバコの火も、しっかり消えていた。



 荒木がだるさんの死を知ったのは翌日だった。驚きと悲しさで、しばらく体を動かすことができなかった。何度も何度も読み返したニュース記事が映るスマホの画面に、涙がぽとりと落ちた。「ああ、なんてことだろう。惜しい人を亡くしたなぁ…」震える声で、荒木はつぶやいた────


 こうして燃え立つ理想はタバコとともに無理やり地面に押し付けられ、人類の希望の火はあっけなく消えてしまった。超豪華なカプセルをいっぱいに詰め込んだガチャガチャに、たしかに500円は投入されていたのに。たしかに投入されていたし、レバーもほんの少し動きはしたのに。が、決してぐるりと回されることはなかった。あとは回されるだけだったのに、そうはならなかった。だるさん本人にとっても、荒木にとっても、人類全体にとっても、まことに痛恨である。
「しかし」と誰かが言う声が聞こえる。「回ったとてどうなったわけでもないだろう。何も起こらなかったに違いないさ」
 そういう意見には次のような例を提示できる。三十数年前、アルゼンチンの街中。路地にあるエアコンの室外機の横にちょこんと座ったメッシ少年がいて、こう言ったとする。
「僕は将来世界一の選手になって、すべてのタイトルを獲得する。チームとしての優勝も個人としての栄冠も、世界中にあるすべてを手にする。だから、ねぇ、僕にボールをちょうだい」
 この言葉を誰が信じただろうか。誰が信じた上でこの少年にボールをあげただろうか。おそらく誰もが、一笑に付して終わりだったに違いない。さらに別の言い方をしてもいい。少年時代、もしメッシがボールと無縁に暮らしていたらどうだったろうか。メッシの生活圏にあるボールが全てパンクしていたら。そもそもボールの原材料が世界的に枯渇し、アルゼンチンではボールを入手できなかったとしたら。もっと平たく言って、彼がサッカーをしていなかったらどうだっただろうか。彼は今のメッシになり得ただろうか。サッカーを極め、たくさんのトロフィーに囲まれた今があっただろうか。
 才能、環境、意志。もしくは計画、500円、時間。
 すべて揃った結果としての偉大な選手であり、すべて揃った結果としての世界の平和なのだ。そのどれか一つでも欠ければ何も実現しないし、どれか一つだけあったところで、何も起こらない。そのことからもわかる通り、そう、この世は万事紙一重である。人の一生も世界の命運も、すべて紙一重なのである。

 だるさんの死後、もっくんやらんちゃんをはじめとするかつての友人や知人に聞き込み、荒木が色々と調べたところによると、だるさんは昔、県庁前通りで小さな商店を営んでいたらしい。彼がしゃがんでいた、エアコンの室外機があるあの場所でだ。だが近所にコンビニができ、スーパーができ、ホームセンターができ、そうした巨大な力の前に為す術がなくなり、もうずいぶん前に廃業していたのだそうだ。親から受け継いだ商店を、だるさんの代で潰すことになってしまった。そしてその後のだるさんは経済的に苦境に陥ってしまった。そうした経緯があったからだろう。だるさんが勢力均衡を好み、他者を平気で押し潰そうとするような、大き過ぎる勢力の登場を嫌ったのは。そして自らも巨人となることによって、そうした連中の野心と対峙しようとしたのは。
 だるさんには身寄りがなかったので、荒木がお墓の世話をしてあげた。そして坊さんに頼むと高くつくし、色々考えてみたらいいのが思いついたので、戒名は荒木が自分で付けてあげた。

 犬呼陰理有州徒救世将軍居士わんこいんりありすときゅうせいしょうぐんこじ

 そう刻まれた墓に、荒木はお線香とタバコを供えた。そしてしずかに目を閉じ、心を込めて合掌した。



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