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【短編】光陰シュートの如し



              1


 風が冷たい一月の午後三時、日曜で児童たちがいない田舎の小学校。校庭にあるサッカーのゴール裏に乱雑に停められた数台の自転車と、ボールを追いかけ走り回る数人の中学生。
「こっちこっち!パスパス!」
 彼らの言い分によれば「使った後グラウンド整備しなくてもいいから」中学校ではなく、小学校に集っているのだそうだ。冬の午後なので太陽が伏し目がちになるのが早く、そんな彼らを西陽が優しい眼差しで見つめている。みんなカレンダー二枚分くらいは季節を先取りした格好で、季節と整合性がとれるのは軍手ぐらいなもの。北風を受ける度、パスをもらいに走る度、薄手のジャージやトレーナーがはつらつとした体にぴたりと張り付き、彼らの若さを浮き彫りにする。
「あげてあげて!センタリング!」
 運動神経の塊のような隼人はやとが、正確無比なキックで浮き球をゴール前に送る。それを頭で合わせるのは大輔だが、大輔はまあまあの技術しかないため、軽く当てて角度を変えようとした際、あまりに軽く当てすぎてこすれるような形になり、髪を少しもっていかれる。
「いてて!」
 校庭に明るい笑い声が響く。校舎のガラス窓もつられてビリリと笑う。冬枯れの桜も、伸ばした腕をふりふりして楽しげだ。
 だが、そんな中でも一番楽しげだったのはひかるだろう。光はサッカーを始めたばかりだったので、ボールを蹴ってさえいれば何でも楽しかったし、それが友達と一緒なら尚更だった。ボールの芯を上手く捉えた時のドンッという音と、仲間内だけの笑い話の組み合わせは、光の知る限り最高の心地よさだった。だから雪雲が山にかかっていようが寝不足のもやが頭にかかっていようが、毎日だってサッカーをしたかったし、みんなに会いたかった。誘いの連絡が来れば憂いなど吹き飛んだし、そもそも日々の憂いなど極小で、無いに等しい毎日だった。
 ドンッ!
 隼人が鋭く振り抜いたシュートはゴールに向かって放たれた弾丸のようだった。が、惜しくもクロスバーをわずかにかすめて冷たい空気を切り裂き、大股にバウンドしながら遠ざかってゆく。地面に触れる度砂埃を上げながら、真っ直ぐにめがね橋を架けてゆく。
「あ、僕が取ってくるよ!」
 その時ゴールに一番近いところにいた光が、自分で取りに行こうと一歩踏み出していた隼人を制して、ゴール裏の方へと走り出す。この小学校の校庭はとてもこじんまりしている。野心を持たない王国の領土のように、足るを知るで控え目だ。昔は村だった地域なのでそもそも児童数が少なく、校舎は町の学校に比べればシルバニアファミリーみたいなもの。なので弾むボールは簡単に、勢いよく塀を越えて外に出ていってしまった。塀はただニコニコしながらそこに突っ立って、ボールに向かって「いってらっしゃい」とさえ言っていそうだった。光はそんな塀に足を掛けよじ登り、学校の外にボールを探しに行った。
 小学校の周りは民家や畑や竹藪にぐるりと囲まれていた。要は本当に田舎の本当に山あいで、本当にふるさとという感じがする空間だった。光はサッカーや友達も好きだったが、この雰囲気も大好きだった。かわいらしい箱庭の中にいるような感覚、安心する大きさの世界に抱かれているような感覚、思わず目を閉じうっとりとするような感覚。家々の軒先に、畑の畝間うねまに、裏山の木々の間に、胸を温かくしつつ締め付ける「満ち足りた侘しさ」のようなものが溢れていた。息を深く吸い込めば、枯れ草を燃しているのがわかる。魚を焼いているのがわかる。ここが自分の生まれ育った場所だとわかる。そんな中を息を切らして走っていると、いつまでも終わらない冬休みの中に、永遠の午後の中にいるような気がした。

「ん?」
 しばらく走ったところで、ボールが転がっていったであろう方向からふと脇に目をやると、路地の奥の方に女の子がいるのが見えた。その子はこちら側を向いて一人佇んでいる。声は出さなかったが、光の口が「あっ」と開く。

 由香だ。

 同じ中学校に通っている由香だった。由香は光の頭の中にいつもいた。というか、入れ替わり立ち替わりの激しい気まぐれな頭の中にあって、サッカーボールと友達とその女の子の三者だけが、いつもいた。そして由香が放つ輝きは、他の二つを足してようやく追いつくか追いつかないかくらいの眩しさで、光の日常を照らしていた。平たく言って、由香のことが好きだったのだ。そんなわけだから、この偶然の邂逅に光の驚きと幸福感は一気に高まる。そして立ち止まって話しかけるという選択肢が必然的に体を捉えた。
 が、それは未遂に終わった。一瞬回線が不安定になったみたいに目と声帯と足がカクッと震えただけで、光はそのまま走り抜けた。走ることだけは許された金縛りにあったみたいに、真っ直ぐ前へ、ボールを目指して走り抜けた。早くも後悔の足音が後ろから迫ってくるのを聞きながら、目一杯に走り抜けた。

「あーあ、なんでかなぁ、もうっ!」
 光の胸中で恋心と悔恨の嵐が渦巻く。「なんでだなんでだなんでだ」という心の中の問いが、実際に鼓膜を震わせてくるような感覚。しかしそれでも故郷は静かで、北風の音だけが静寂と踊っていた。遠くで聞こえる犬の鳴き声はいわば静寂の外側からしていて、風で揺れる幕の向こう側からかすかに聞こえるという感じ。光の足音と息遣いと鼓動は混ざり合い、傾いた西陽の中で脈打つ。そして走る度に若い血潮が上下に熱く波打つのを、山々が微笑のような陰影を浮かべながら、じっと見つめていた。

              2


 もうかなり走ったところで、光は民家の裏手にある竹藪の縁にたどり着く。おそらくボールはここだろうと、見当をつけていた場所だ。するとその竹藪の前、少し陰になっているところに一人の男が立っているのが目に入った。年の頃は三十代半ばくらいだろうか。光が探していたボールを手にして立っている。光はそれを見て男に話しかけた。
「あ、そのボール。ありがとうございます、学校の塀を超えちゃって」
 そう言ってはあはあと息を切らす光。男は請われるままにボールを渡しながら、光に尋ねる。
「みんなでサッカーしてるんだね。楽しい?」
「はい、楽しいです!ほとんど毎日やってます」
 そう聞いて男は微笑んだ。
「そっか。楽しみがあるっていうのは素晴らしいことだよね。嫌なことを忘れて夢中になったり、時間を忘れて夢中になったりね」
 光は頷きながらも、この男が誰で、何故ここにいるのかが気になったので尋ねてみた。
「あの、お兄さんはこの辺りの人ですか?」
「ああ、僕かい?そうだね、家はもうちょっと離れた場所にあるけど、ここも僕にとっては故郷の一部だから、まあ、この辺りの人だね」
「へぇ、じゃあ、散歩しに来たとかですか?」
「うん、まあ。でも一番の目的は…ある人に会いに来たんだ。今ここで、その人を待ってたところなんだ」
 なるほどと相槌を打つ光に、温和な眼差しを向けながら男は続ける。
「君、光くんでしょう?」
 光は驚きつつ答える。
「えっ、僕の名前を知ってるんですか?」
「ああ、それは…そうだね。実は、知ってるんだ」
「へぇ……なんでだろ」
 不思議そうな顔をする光を制するようにして、男は続ける。
「ねぇ、光くん。さっき向こうの路地に、かわいい女の子がいたろ?君と同じ中学校に通ってる、かわいい女の子が。ねぇ、ちゃんと話しかけた?」
 光は少しどぎまぎしながら答える。
「えっ、いやっ、その、話しかけなかった…」
「あれ?なんでさ」
「いや、ボールを追って走っていたし、それに」
「それに?」
「それに…突然だったし…何を言っていいかわからなかったから…」
 そう聞いて男は視線を落としつつ、少し複雑な笑みを浮かべた。相手を責めたり嘲ったりしようというのとは違う、共感しているような、理解を示すような笑みを。
「そっか、そうだよね。わかるよ、その感じ。突然だと、頭の中が真っ白になっちゃったりするもんだよね」
 二人とも、胸の内側をさまざまな思いがつつくのを感じていた。目をそらしたままの二人は、地面の別々の地点を見つめた。見つめられた石ころや草は目配せし合って、さらにその下の地面をじっと見つめることにしたようだった。そんな調子で男も光も言葉に窮したままで、数秒の沈黙が流れた。そこで、気を利かせた風に促されるように竹の葉が揺れ、さらさらと音をさせた。
「あ、見て光くん。竹藪にジョウビタキがいる!」
「え、ジョウビタキ?」
 光は竹藪の方を見たが、最初は何も見えなかった。が、じっと目を凝らしてみると、頭は銀色で胴は橙色をした一羽の小鳥が、竹藪の中を忙しげに飛び回っているのが見えた。
「あっ、あの鳥のことですね、ジョウビタキって」
「そう、あのかわいい小鳥のこと」
ジョウビタキは一旦枝に止まって、尾羽をふりふりさせている。やさしい橙色が、同じくやさしい竹の緑とよく似合う。
「そっか、光くんはまだ、鳥にはあんまり興味ないか」
「そうですね、名前とか全然わからない」
「はは、いいんだよ。僕も鳥や植物に多少興味を持つようになったのは、大人になってからだった。今そこにいる鳥はなんていう鳥だろう?どんな生態なんだろう?という風に、知りたいと思うようになったのは、大人になってからだった」
 ジョウビタキは冬の内側で弾むように、あっちに行ったりこっちに来たりしている。生きていることを一瞬も無駄にすまいと、命のダンスを踊るように。はつらつとした体色と翁のような白髪という不思議な組み合わせの色彩が、いよいよ傾いた黄金色の西陽の中で溶け合っていた。
「でもね、そういった知識みたいなものについては、実のところどうでもいいんだ。本当に大事なのはね、今ここに鳥がいる、一生懸命羽ばたいている、とてもかわいい姿をしている、そしてそれをたしかに自分が見ているってことで、そういうことこそ、忘れないようにしっかり憶えておくべきことなんだよ」
「そうなの?」
「うん。どうしてかっていうと、その時には何でもなく思えたことが、ただの日常の一コマに思えたことが、あとになってみるととても懐かしく、輝かしいものに思えてくるものだからなんだよ。あの日鳥を見たとか、あの頃来る日も来る日もサッカーをしていたとか、通学路のいつもの香りとか、昼休みにした何気ない会話とか。そして寒い中の早起きがつらかったことでさえ、授業が退屈だったってことでさえ、輝き出す時がくるものなんだ。そういう時代が、出来事が、思い出が、自分の人生にはたしかにあったんだってことそれ自体が、かけがえのないものに思えてくるものなんだよ」
 男は少し悲しげに微笑みながら、夕陽を受けて輝く光の顔を真っ直ぐ見て続けた。
「だから、ねぇ、毎日を大切にしよう。今日生きてるってことを噛み締めよう。全ての瞬間が愛おしいものなんだってことを胸に刻んで生きていこう。友達とは仲良くして、家族を大事にして、好きな女の子には好きって言おう。たくさん努力して、たくさん感動して、たくさん笑おう。だって僕らの人生はいつ何が起こるかわからないし、とても短いものだから。本当に短くて、とても早く過ぎ去ってしまうものだから」
 夕焼けの中で、ものみなすべてが深く息を吸い込んでいるようだった。そしてものみなすべてが目を瞑って、胸にかすかな痛みを感じているようだった。男と光は色々なことを話した。友情のこと、恋のこと、将来のこと。この町や、自然や、夢について。よく理解しようと聞き入ったり、静かに頷き合ったりした。そんな二人を取り巻くようにして、山々の稜線は燃え上がり、澄んだ空気がそれを抱き締める。冷たくなった土に雀が降り立って、自分の小さな影に「また明日ね」と言っている。家々の台所の窓が曇って、暖色の笑みを浮かべている。色、音、香り、そうしたすべてが滲んで一つの存在となって「ふるさと」という言葉が付される。このこじんまりとした時空の中で、個々の命は生まれては消え、生まれては消えを繰り返し、それぞれの命の物語が編まれ、やがてふるさとと一つになっていく。かつてあった懐かしい顔や、山にこだました無邪気な歓声が、世界のこの一点において混ざり合う。ふるさとの過去、現在、未来が黄金色をして混ざり合う。透き通った忘却と記憶の柔肌とやがて来る明日が、今も竹藪を通して、眩しいほどに輝いている。最後に男は、自分がここに来た理由を光に語りだした。ここで誰を待っていたのかを、語りだした──

 男は竹藪の少し陰になった所から、光の方に一歩踏み出した。
「さぁ、光くん」
 少年は黙って男を見上げる。冬の夕陽の中で佇む二人は、季節外れのたけのこと竹のようだった。
「ボールをくれる?寂しいけど、そろそろ行かなくちゃ」
 光は少し間を置きためらったが、やがてこくりと頷いて、男にボールを渡した。だが光は少し悲しげで不安げな表情をしていたので、男は少年の肩にそっと手を触れて言った。
「大丈夫、大丈夫だよ。きっと僕たち、大丈夫さ」
 光の口角がかすかに上がったように見えた。努めてそうしたのか、夕陽によるただの陰影だったか、それとも心からの微笑だったか。それを見て男は少年の肩から手を離し、光の顔をしっかりと見つめながら、最後にこう言った。
「話せてよかったよ。ありがとう、光くん。さようなら」
 男は少年の脇を通り過ぎ、その場を去って行った。
 入れ替わる光と陰のようだった。

 男はそのまま真っすぐ歩いた。冬の夕暮れの中をボールを抱えて歩いた。ふるさとの道を一歩一歩踏みしめながら、胸に積もった郷愁を一つ一つ確かめながら。
 真っ直ぐな歩みの途中で、十字路に出くわした。見覚えのある、細い細い十字路。男はそこで立ち止まり、右、左と首を振り路地の奥の方を見てみた。が、そこには誰もいなかった。誰かがまだそこにいるような気がしただけで、誰もいなかった。
 細い道をそのまま前に歩き続けると、小学校の校舎が見えてきた。そして学校をぐるりと囲む塀も。男は一旦立ち止まり、静かに息を吸い込んだ。そして塀に足を掛け、乗り越えて、校庭に立った。

「ああ、久しぶりだなぁ…」

 男の胸に懐かしさがどっと溢れかえった。

 二十年が経っていた。

「ああ、ほんとうに、ほんとうに懐かしいなぁ…」

 男の名は光だった。

 二十年ぶりにこの校庭に帰ってきた。

 あの日みんなと追いかけた、サッカーボールを持って。

 光は感慨深げな表情で、校庭を見回した。

 小学校は児童数のさらなる減少により、随分前に廃校になっていた。校舎はそのままだが、中はがらんとしている。校庭もそのままだったが、ゴールは姿を消していた。光はボールを手から離してバウンドさせ、足で受け止めたあと少し転がしてみる。そしてかつてゴールがあった方向に、軽く蹴ってみる。足の甲にボールの感触がじんわりと広がる。
「そう、こんな感じだったなぁ…」
 
 だが、かつて一緒にサッカーをした友達は、もう誰もいなかった。
 隼人は高校に馴染めず中退したあと、隣街の不良たちとつるみだし、それから数年して消息を絶った。
 大輔は親の仕事の都合で中国に渡り、その後音沙汰がない。
 そしてかつて光の日常を照らしたり動揺させたりした女の子の姿ももうなかった。
 由香は二十一歳の時、交通事故で死んだ。友達が運転する車の助手席に乗っていた時のことだった。

 すべてが過ぎ去ったあとの夕空は、苦しいほどに美しかった。あかね雲と一緒に空を漂うようにして、五時の町内放送の『夕焼け小焼け』が聴こえてくる。校舎の窓ガラスと桜の木の枝が、風に吹かれて揺れている。上着のポケットに手を入れ校庭を歩きながら、光は静かに口ずさむ。

「お手々つないでみな帰ろ カラスと一緒に帰りましょ」

 二十年はあの日のシュートのように、一瞬で塀の向こうに消えていった。

 校庭にはこうして、思い出だけが残った。

「ねぇみんな、ありがとね。ほんとうにほんとうに、楽しかったよ」

 たしかに、時は流れた。



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