うらやましい孤独死【無料公開版(2)】
やはり「うらやましい孤独死」など存在しないのだろうか?
いや、そんなことはない。私は断言できる。それは実際にこんなおじいちゃんを知っ ているからだ。 彼は、「天涯孤独」だからこそ自分の人生の終わりを自分の意志どおりに全うするこ とができた。
「入院は絶対しない!」─ 90代後半の男性のケース
鹿児島の、とある医療機関で接した 90代後半の男性・田崎さん(仮名/特に断りがない場合、以降の患者さんの名前はすべて仮名)のケースである。 田崎さんは、かつてヘルパーさんたちの力を借りて認知症の奥さんの介護をこなすこ とができる程度には自立されていた。しかし数カ月前に奥さんを看取った後は独居となっていた。
田崎さんは、奥さんが亡くなってから急に食欲を失い、体力が低下した。私の経験上、こういうときに弱いのはたいてい男性である。彼もそうだった。 次第に元気も失い、食事も取れなくなっていった。 彼にとっては認知症の奥さんを介護することが人生の柱だったのだろう。奥さんの死 によって田崎さんは生きる意味を失ってしまったのかもしれない。しばらくして彼は、 わずかに口にした食べ物で誤嚥性肺炎(食べ物が気管・肺に入って起こる肺炎)を発症した。
奥さんはいない。そもそも子どもいない。親類もほとんどいない。いわゆる天涯孤独 の身となってしまっていた。 超高齢・独居・天涯孤独......さまざまな悪条件は、在宅医療を提供する医師である私 を大いに悩ませた。
通常、高齢者の肺炎には在宅医療(つまり自宅)でも検査や治療をすることができる。 抗生剤の点滴を自宅ですることだってできる。そういう意味では自宅においても病院で の治療とほとんど変わらないレベルの医療を提供できるのだ。しかし、田崎さんの場合、そうした医療的な問題とは別に、トイレや食事などの生活 面での負担が圧倒的に大きかった。
すべてを解決する打開策は入院だ。私は当然のこととして入院を勧めた。 しかし、田崎さんは頑として首を縦に振らなかった。その決意は確固たるもので、妥 協案を受け入れる隙は1ミリもない。私が何を言っても、とにかく「入院はしない」の 一点張りなのだ。
理由はわからない。奥さんと長年一緒に生活したわが家を愛していたのかもしれない。 もしかすると奥さんの入院中に病院で何か嫌なことがあったのかもしれないし、ご本人 の過去の入院で尊厳を傷つけられるような経験があったのかもしれない。答えは今でも わからない。とにかく「入院は絶対にしない!」と言い張るのだ。
いくら病人でも、拒 否する人を無理やり救急車に乗せるわけにもいかない。 正直に言おう。そもそもが超高齢で体力が落ちた状態での肺炎である。入院を勧めは したものの、私も医師として「回復の可能性が高い」と思ってはいなかった。もちろん 入院して点滴などの集中的な治療をすれば命は助かる可能性は5割程度はあるかもしれ ない。しかし、元通りに自宅で独居ができるまでになる可能性はよくて1割程度だろう。 その差の4割はなんなのか? それは命は助かるのに自宅に帰れないということだ。つまり、要介護状態になって、場合によっては人工呼吸器や胃ろう栄養などの延命治療によって、病院や施設で命を保 つということである。
私は、以上のような医師としての見立てを田崎さんに説明した。 「今回はさすがに入院したほうがいいかもしれませんね」といういくらか誘導的な言葉 を使った。 それでも彼は聞く耳を持たなかった。熱でうなされながらも「入院」という言葉にだ けは顔をしかめてゆっくりと首を振り、明確に拒否の意を示した。まるで答えは100 年前から決まっているとでも言わんばかりだった。つい最近奥さんを看取った彼には、 私の見立てくらいのことは十分にわかっていたのかもしれない。 こうなれば、われわれにできるのは在宅生活に必要な訪問介護や看護をケアマネさんや他職種と一緒に手配し、また毎日の点滴などできる限りの在宅医療を届けるのみだ。 訪問看護は1日2回、訪問介護も1日3回、抗生剤の点滴も毎日行なった。生活面も 医療面も、病院にいるのと遜色ないくらいの体制だ。
しかし、現代の医療をもってしても、体力の低下した超高齢者の命を救うことは難しい……。残念ながら田崎さんは亡くなった。場所は、たっての希望だった自宅だ。田崎さんは 独居のまま自宅で亡くなったのだ。
しばらくして私は考えた。果たしてこのような場合、田崎さんのような高齢独居の最 期は「孤独死」なのだろうか?
もしも家族がいたなら...
別の言葉で言えばこれは「独居死」かもしれない。あるいは「孤立死」かもしれない。 いや言葉の定義に大きな意味はない。 意味があるとするなら、田崎さんの自宅での死が彼にとって幸せだったかどうか、であろう。 田崎さんにそれを聞くことができないならせめて、客観的に見て「うらやましい」と言えるかどうかを私たちが考えることだろう。 繰り返すが、人間の死亡率は100%である。人は必ず死ぬ。たとえ前述した夕張で亡くなった女性のように地域の親しい人間関係があったとしても、人生の終盤にもなればその仲間たちも徐々に亡くなっていく。自分が長生きすれば 伴侶も亡くなる。最期は自分だけかもしれないのだ。もし子どもがいなければ、もしく は子どもたちが遠方でなかなか連絡がとれない状況であれば、そのとき孤立は避けられ ないだろう。
では、 人生の終盤、自立生活が難しくなったときに孤立してしまったら、ふつうはどうするか。 高齢者住宅や介護施設に入所することになる。また、医療的な問題があるのなら長期 入院ができる慢性期病院のお世話になることも多いかもしれない。もちろん、安全・安 心を考えれば、その選択は妥当と言えるだろう。 しかし、自戒を込めて言えば、その安全・安心は周囲の人たちにとっての安全・安心 でしかないのだ。 田崎さんの場合もそうだった。最初に私が入院を勧めたとき、私が考えていたのは、
「医師である私にとっての安全・安心」
だった。誰かに聞かれれば、「田崎さんの生活の 安全・安心のため」と言うだろう。しかしそれは建て前だ。
高齢になれば誰でも自然に足腰が衰える。転んでケガをすることを考えれば、医師としては「歩くな」と言いたくなる。トイレまで行くにも自力歩行を制限し、車椅子を使 うことを指示しがちだ。 行動を制限された高齢者の筋力・体力は急速に落ちていく。そして寝たきりになり、排泄はおむつになる。 また、高齢になれば誰でも自然に飲み込みが悪くなる。食べては誤嚥し、肺炎を発症するのだ(これを誤嚥性肺炎という)。誤嚥性肺炎を恐れるのなら「食べるな」が一番 の安全策だ。 高齢者はこうして「歩くな」「食べるな」と医師や看護師・介護職員から行動を制限 され、次第に寝たきりにさせられていく。 確固たる意志のおかげで田崎さんは自らの思いを遂げることができたが、もしそれが なければ私は悪気なく彼を入院させていたかもしれない。悪気なく救急車を呼んでいた かもしれない。おそらく一般的な家族の思いもそんなところではないだろうか。
聞けば、ほとんどの人が「延命治療をしてまで生きたくない」「自宅で死にたい」と 言う。実感として死を意識せざるをえない高齢者はなおさらそう思っていることが多い。 しかし、この国の現実は彼らの思いをほとんど叶えない。日本国民の死亡場所の8割は病院なのだ。 田崎さんの場合も、もし同居の家族や、遠方のお子さんなどがいたら、たっての希望 である「在宅」は叶えられなかったかもしれない。 田崎さん自身は人生の終わりに覚悟をもって臨んでいたわけだが、家族にその覚悟が あるかどうかはわからないのだから。
家族にもその覚悟がないと、気持ちは安全・安心の入院へ傾いていってしまう。 最期まで自宅で暮らしたいと願っている方の終末期に、家族が「不安」を理由に入院 を希望したり、救急車を呼んでしまう例は決して珍しいことではないのだ。
90代で心不全の男性、 80代で肺疾患の女性、どんな病態でもたいていは次第に食べら れなくなったり、多少の発熱があったりしながら、徐々に呼吸が微弱になり、最終的に 心臓が止まる。 そこに至るまでの過程の一つ一つの症状を家族が不安に感じてしまえば、ご本人の望 む「自宅で最期まで」など叶うべくもないのだ。 日頃から偉そうに〝患者中心の医療〞を声高に謳っている私でさえ、田崎さんにそれ となく入院を勧めてしまった。終末期医療を初めて経験される多くの家族にとっては言わずもがな、である。 入院による安全・安心の魔力は「最期まで家にいたい」という高齢者の思いを容易に 踏みにじってしまうのだ。 医療従事者や家族にとっての安全・安心を、本人の思いよりも優先させてしまうこと。 これこそが、容易に入院・施設入所という決断がなされる要因の一つなのだ。 入院・入所のあとには、いずれ必ず病状悪化が来る。そのとき方針が「安全・安心」 のままなら事態はさらに本人の思いとは別の方向、つまり延命治療に向かってしまう。 延命治療で命を伸ばすことができる状況で、それを選択しないという決断は、家族にとって相当の覚悟が必要だからだ。 その意味では、田崎さんは天涯孤独であったからこそ望みどおり自宅で人生を終えら れたのかもしれない。 多くの人が望んでもなかなか叶わない在宅死を、孤独であるがゆえに叶えたわけだ。 これはある意味「うらやましい」と言っても過言ではないだろう。
今後訪れる超高齢化社会においては大きな問題が生じてくる。高齢の夫婦暮らしはい ずれ伴侶のどちらかが先に逝く。そしてどちらかが独居となる。そもそも結婚されていない方もいる。となれば、高齢独居は当たり前に訪れるものとなる。
事実、高齢化率日本一の市である夕張市では、高齢独居世帯が当たり前だった。 そんな人たちを、周囲から見た安全・安心の視点で早いうちから施設に入れ、地域の人間関係から引き剥がし、さらに病状が悪化すれば病院に入院させて延命治療を施すこ とがその人の人生にとって良いこととは私には決して思えない。
小規模多機能など高齢者の在宅生活を支える介護サービスや在宅医療といったサービ スはもちろん大事であるが、その前に、「自分の人生の終わりへの覚悟」が必須である ことは間違いないだろう。これは本人はもちろん、家族にも求められる。 家族にその覚悟が持てないのなら、いっそ天涯孤独の人のほうがかえって本人の最期 の願いは叶えられやすいのかもしれないのだ。 そんな意味では、ここまで紹介した夕張の孤独死と、田崎さんの孤独死の2例は非常 に示唆深いものがあるだろう。
▼夕張の例:地域の温かな人間関係の中で最期までいきいきと生活できた孤独死
▼田崎さんの例:自分の人生の終わりに覚悟を持って自ら選び取った孤独死
いま私は「孤独死」なのに「うらやましい」と言えるためには次の2つが重要なので はないかと思っている。
・「死」までに至る生活が孤独でないこと
・誰にも訪れる死への覚悟があること
「うらやましい孤独死」の条件─ 土喰ミツエさんのケース
鹿児島県の山間部にお住まいの土喰ミツエさん(ご家族からの許可をいただき実名表 記)のケースは、まさにその2つを完璧に持っていた好例だ。しかも、2つ目の条件で ある「死への覚悟」がご本人だけでなく遠方の家族にもあった点は特筆すべきだろう。 だからこそミツエさんは高齢独居で最期の瞬間も一人だったにもかかわらず、周囲から「うらやましい」と言われたのである。
無料公開版(3)へつづく。
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夕張に育ててもらった医師・医療経済ジャーナリスト。元夕張市立診療所院長として財政破綻・病院閉鎖の前後の夕張を研究。医局所属経験無し。医療は貧富の差なく誰にでも公平に提供されるべき「社会的共通資本」である!が信念なので基本的に情報は無償提供します。(サポートは大歓迎!^^)