『偏愛音楽独言後後文学写真少々』vol.01 「偏愛志村正彦(フジファブリック)」
『偏愛音楽独言後後文学写真少々』
(〜偏愛音楽ひとり言、あとあと文学と写真を少々〜)
vol.01 「偏愛志村正彦(フジファブリック)」
〈 フジファブリック 『TEENAGER』〉
この人の作品との出会いは、奇跡的とも言うほど、ごくごく最近のことだ。その存在を知ったのは2019年秋頃だろうか。なぜ奇跡的かといえば、フジファブリックは現在も日本の音楽シーンで活躍するバンドであり、活動歴も15年ほどになる。ご存知の通り、フジファブリックのボーカルであり、その楽曲のほとんどの作詞作曲をしていた志村正彦が急逝したのは2009年。Jポップもそこそこ聴いている自分だが、「フジファブリック」の文字を見た覚えも無いのは、出逢うべきタイミングまで避けられ続けていたということなのか。
その存在を知るきっかけは、妻が大好きなマッキー(槇原敬之)が出演していた番組「ミュージックTV」でフジファブリック「若者のすべて」が、彼のリスペクトする楽曲として取り上げられているのを観たところからだった。
この曲の歌詞と楽曲に魅せられ、3rd Album『TEENAGER』を聴き、「志村正彦全詩集」を手に入れ、それ以来、まだ1年ほどだが、今も深く深くその作品に潜り続けている。
〈「志村正彦全詩集」(パルコ出版社)〉
ここで語りたい曲は「若者のすべて」。(from 3rd Alubm『TEENAGER』)
フジファブリックといえばこの曲!と言われるほど、フジファブリで一番メジャーかつ、不朽の名作と言っていい楽曲だろう。名作は人知の及ばない場所に在ると日々思っているのだが、この曲も3rdアルバムの中で一曲だけ場違いのように凛と佇んでいる。高らかに鳴り響くイントロのリフレインは、ジョンレノンの「IMAGINE」のイントロのように、異次元に連れていかれるような錯覚をも感じさせる。
〈JOHN LENNON 『IMAGINE』〉
そしてこの、驚くほど平易な歌詞。
ないかな ないよな
きっとね いないよな
会ったら言えるかな
まぶた閉じて浮かべているよ
聞き手が100人いれば、100人が違う何かを思い浮かべる、
それぞれの中に在る、過去の情景や想いとリンクさせるような、
深い抱擁力がこの曲にはある。
それは、この曲の歌詞に“主語”が出てこないからなのか。
自分の記憶と重ね合わせた花火の風景は、切ないけれど心がホッと暖かくなるような、掴みたいけれどもう届かない懐かしい記憶。
そこで感じるのは、山下清の「花火」の切り絵を見たときのような、
切ない想い。
作品に触れた人それぞれが、それぞれに解釈できる大きな包容力を持った作品を自分も作りたいと、この曲を聴くと常々思わされる。作者不在の作品。
僕は16歳の時に初めて訪れた道北に魅せられ、それ以来、道北に通い続けているが、最も道北に通っていた20代後半、創作上ある壁にぶつかった。その頃、年間概ね60〜80日ぐらいを道北で過ごし、風景を中心とした写真を毎日撮り続けていた。それはもちろん「良い写真を撮りたいから」に相違ない。だがある時に気が付いた。気づいてしまった。
良いものを撮りたいという思いが強すぎると、それが作品に押し付けがましさや厚かましさ、つまりは“臭み”を生むということだ。なぜなら、シャッターを切る瞬間の撮り手の感情やバイオリズムは、意識する意識しないに関わらず100%写真に乗り移るからだ。
「いい写真を撮るために、資金もつぎ込んではるばる来ているのに、その思いが強すぎるのか、綺麗な写真を撮れても、客観的に良いと思える写真が撮れない。」という袋小路に入り込んでしまった時期があった。その頃、読み漁っていた宗教書・哲学書の中に、その答えのヒントを指し示してくれる1冊があった。鈴木大拙の『禅』だ。
〈 鈴木大拙『禅』〉
自我を捨て、無心で対象と向き合うこと。
この本との出会いから、
「“良い写真を撮りたい”という思いが作品の臭みになるという、二律背反した行為を同時に行うことの難しさ」を抱えながら撮影に臨む際の、一つのヒントをつかむことができた。
志村正彦がどんな精神状態で「若者のすべて」を作り上げたかは想像の範囲を出ないが、きっと「生まれてきた子供を両手で受け止めるように」この曲は完成したのではないかと察せられる。
作者の臭みを全く感じない、聞き手にイメージを委ねる懐の大きな楽曲。これはおそらく志村正彦の“無意識の意識”から滲み出た、彼の心の純真さがなし得た業なのだろう。その透明感が聴き手の心を強く打つ、永遠に色褪せることのない名作だ。
それにしても何故、この曲のタイトルは、「若者のすべて」なのだろう。
マスターピースは、底が見えない。