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残像論断章(七)──残像、旅、神話
❖六月にラオス北部を旅した。樫永真佐夫『道を歩けば、神話』(左右社)は、ラオス~ベトナムの少数民族にさまざまな「国造り神話」が伝わっていることを教えてくれる。神話は個人を超えて、その国なり民族なりが共通に持っている「残像」のようなものにちがいない。しかし神話はそのままではいられない。太古の神々は親しい友人のように呼びかけられ、ときに神話は捏造され、改変され、記憶と語り伝えのなかで錯時(アナクロニ―)を起こし、変形され、集団的な夢のようになる。港千尋はレヴィ=ストロースの『神話論理』についてこんな紹介をしている。
……鳥の羽根=虹=病気=毒という連鎖にたいし、「半音階的」という概念が出されて、神話的思考の特徴がより具体的に明らかにされる。ルソーによる半音階の説明を引きながら、音楽における「半音」が絵画における「色」に相当すること、視覚的半音階としての虹が毒と病気をもたらすというブラジルの神話が、半音階に「悲痛」や「苦悩」の表現を認める西欧の感覚と矛盾しない……(港千尋「超理性の翼」)
旅行中、『悲しき南回帰線』を再読した。
しかしわたしの冒険生活はわたしに新しい境地を開いてくれるどころか、わたしが求めていたその新しい境地はわたしの指の間で消滅してしまい……わたしの過去がしまっておいた別のイメージが……現に眼前にあるイメージに取って代ったのであった。……(それは)思い出によってたしかにすりへっていた、ありふれたメロディであった。それはショパンの練習曲作品10の3であった。……(クロード・レヴィ=ストロース『悲しき南回帰線』、室淳介訳)
❖このような経験は旅のなかで、黙した歩行のリズムが呼び起こしたたんなる「不意の記憶の想起」といってもいいだろうが、いずれにしろそれは過去のもので、ぼんやりとすりへってしまっているにもかかわらず、ときとして執拗だ。
どこへいっても同じ楽節が頭の中で歌っていて、わたしはそれから解放されることがなかった。……これが旅というものであったのだろうか。私の周りにある荒涼たる土地の探検であるよりは、むしろ、わたしの記憶の砂漠の探検であったのだろうか。
時間を経てみると、そのすりへった繰り返しはほつれるようにして、何か別の働きをするように思われる。音楽はこんな「予兆」を連れてくる。
ある感動にひたるのを容易にするために、わたしはもはや完璧な興奮を必要とはせず、前兆とか、暗示とか、ある形の予感があれば足りたのである。……
神話と予兆。そして長いときのなかで忘れられ、使われなくなった言葉を「死語」ということがある。「言葉の死」とは何だろうか。
❖歌人・尾上柴舟が『短歌滅亡論』で言うように「今の我々は「だ」「である」と感じ「けり」「なり」とは感じない」とすると、「けり」「なり」は死語あるいは古語だろうか。それは私たちにとって冷たい屍体のようなものだろうか、あるいは懐かしい遠い祖先のようなものだろうか。
ダニエル・ヘラー=ローゼンは『エコラリアス』のなかで消滅する言語に「死」という生物学的なメタファーを与えることについて、疑問を呈している。言語の始まりと終わりは見定めがたく、「言語に終末はないかもしれず、言葉が留まったり消えたりする時間と、人間の時間は異なっている」からである。
❖折口信夫は、「古語復活論」(大正六)のなかで、短歌において古語を使うことを弁護している。
われわれの時代の言語は、われわれの思想なり、感情なりが、残る隈なく分解・叙述せられてゐるもので、あらゆる表象は、悉く言語形式を捉へてゐると考へてゐるのである。けれども此は、おほざつぱな空想で、事実、言語以外に喰み出した思想・感情の盛りこぼれは、われわれの持つてゐる語彙の幾倍に上つてゐるかも知れない
❖神話と古語は時間のなかで埃をかぶり、すりへっていく。しかし、それはある時、残像のような曖昧な空間のなかで「予兆」あるいは「詩」として響き始める。
反歌
秋来ぬと目にはさやかに見*****どこかでふいにピアノ鳴りはじむ