残像論断章(二)──表の文字と裏の文字
古賀弘幸
❖過去の文字の残像への重ね書きするような行為──これが〈文字を書く〉というものである──は、「過去の文字と複雑な関係を結ぶ」。いくつかの例を見よう。
❖たとえば「日本三代実録」の仁和八年(八八六)十月の条には、正二位藤原多美子という女御が「平生賜う所の御筆を収拾し紙と作す。以て法華経を書写す」という記録がある。多美子は清和天皇が崩御した際に、天皇から下されていた宸翰(天皇の直筆)を集めて漉き返し、法華経を書いて供養した。こうした写経を「漉返経」と呼び、当時の貴族社会で流行したという。漉き返さず故人の書状にそのまま経文を書き込むこともあり、裏返しにして写経することもあり、それらは故紙経とも呼ばれた。
❖「前の」文字は反転し、あるいは漉き返されて薄墨色となって、読むことはできない。しかしそれは故人の文字に重ね書きすることと等しく、「過去の文字と複雑な関係を結ぶ」。
❖紙の裏を再利用することは多く行われた。紙背文書という。裏返しになった文字の上に重ね書きするように書かれることになる。
「延喜式紙背・仮名消息」(一一世紀)は仮名消息の裏に「延喜式」が書かれた例で、消息の紙背の再利用が、仮に経済的な理由からであっても、表裏の〈文字=書〉が作る線の絡みあいは、反転し、乱反射し、複雑な関係を結ぶ。表の文字さえも裏の文字によって錯綜し、読み難いものとなっていく。
それはあたかもラスコーなど旧石器時代の壁画の錯綜した線の重ね描き(手でこねくり回すように岩壁に書かれた線の集まりで、しばしば「マカロニ曲線」と呼ばれる)のように、どの主体にもどの意味にも還元できずに、線が振動し続けるかのようである。
❖また、西洋では、中国から紙がもたらされるまで、羊皮紙が使われたが、羊皮紙は製造に非常に時間と手間がかかったため高価であり、羊皮紙を再利用することが行われた。その「パランプセストpalimpseste」は、一度文字が書き込まれた羊皮紙の表面を削り取り、九〇度回転させてから半裁し、新たな文字を書き込むものだが、中には一〇回以上再利用された例があるという。興味深いのは、削り取られたはずの前の文字が羊皮紙の奥に沈み込んで残っており、X線撮影などによって明らかになることである。祈祷書の裏にアルキメデス写本が潜んでいたことが判明するなど、貴重な文献が復元されることがある。
❖先行する文字が削り取られた上に、新しく文字が書き込まれる。前の文字は消えてしまうことはなく、紙の底に沈み込んでいるが、時として断片的な姿でしかも脈絡を欠いてふいに浮かび上がってくる。その時、新しく書かれている文字は「過去のテクストの残像と複雑な関係を結」び始めるのである。
私たちがふいに過去の誰かの会話の断片やしぐさを思い出し、それが現在話している人物の声に重なって新しい印象を作ることがあるように。今の文字も削り取られる運命にあるが、残像として減衰しながらも消えることなく紙の中に沈み込み、新たな文字の書き込みを待ち受ける。
❖パランプセストは、人間の意識のモデルとしてしばしば言及されてきた。たとえばボードレールはトマス・ド・クインシーからの引用と自分のテクストを混ぜ合わせるようにして、次のように書いている。
「人間の脳髄は、天成のパランプセストに外ならないではないか。……思念や心像や感情が無数の層となって、後から後からと光のように静かに諸君の脳髄の上に落ちた。その一つ一つの層が前の層を覆い隠してしまうように思われた。しかし、実際は一つとして滅びてはいないのだ」……(それらの層を 引用者注)もしも同時に生起させることができたならば、記憶のあらゆる反響は、快いにせよ、痛ましいにせよ、不協和音のない、道理にかなった一つの諧和音を形づくることであろう。……すべての考えもまた取り消すことは不可能である。記憶のパランプセストを破ることは不可能なのである(「人工楽園」渡辺一夫訳)
❖文字を白い紙に書くことは、たとえ使い古された紙の裏でなくとも、ぼんやりと前の文字の残像が漂う上に重ね書きすることにほかならない。
反歌
みづくきのあとをたどりてめでおへば「かも」はみそらのまぼろしのごと