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【明清交代人物録】洪承疇(その三十二)

順治5年、洪承疇は故郷の南安から北京に戻る様に命じられます。この北京での数年間は、彼にとっての束の間の休息期間であったのだと僕は考えています。

北京へ

この時洪承疇が北京に戻っていることに関して、複数の書籍で異なった見解が示されています。

1つの説は、清の朝廷内での暗闘があり、洪承疇自身がドルゴンの元を長期に離れていることを危険だと考えたからだというもの。
もう1つは、逆にドルゴンから洪承疇に北京に戻れという指示が出ているというもの。ただしディテールについては触れられていません。
また、洪承疇が眼病に悩まされ、自ら職を辞することを要請したという説明もありました。

下記は、清史稿の洪承疇に関する記載の抜粋です。

承疇聞父喪,請解任守制,上許承疇請急歸,命治喪畢入內院治事。五年四月,還京師。六年,加少傅兼太子太傅。

「清史稿卷237」

「洪承疇は父の他界の知らせを聞き、朝廷に対し任務を離れ丁憂に着くことを願い出た。順治帝は洪承疇が帰郷することを許し、葬儀が終わり次第朝廷に戻り内閣の仕事に戻る様にと命じた。順治5年4月、洪承疇は北京に戻った。順治6年、少傅兼太子太傅の職を加えられた。」

清史稿には、上記の様な簡潔な記載があるだけです。これによると、北京の順治帝或いはドルゴンからの指示で、洪承疇は北京に戻っていると理解できます。それは恐らくドルゴンだったでしょう。順治帝の親政は、ドルゴンが亡くなった後になります。

この、順治5年というタイミングでは、南明政権の2人の皇帝が相次いで亡くなっており、永暦帝の政権はまだ大した勢力になっていません。そうであれば、ドルゴンは洪承疇の征南の任務は一段落したと判断していたのでしょう。洪承疇を手元に引き戻し、"少傅兼太子太傅"という名誉職を与えて、彼の労を労ったのだと考えています。そして、それは洪承疇自身の眼病ために休みたいという意向とも合致したのでしょう。

この"少傅兼太子太傅"という、皇太子への教育係という役目を、洪承疇は名前だけではなく、実際に先生として行ったのかもしれません。この時の順治帝はわずか10歳の子供でしかありません。この幼い皇帝の先生となっていたとしても、おかしくはありません。

母と弟

北京に戻る際、洪承疇は母親と弟の承畯、息子の士銘を伴っています。父親が亡くなったために、家族を北京に呼び寄せて、面倒をみようと考えたのでしょう。
しかし、温暖な福建省南安で長い間暮らしていた母は、既に老いて体が弱っていたこともあり、順治8年に洪承畯に伴われ、故郷の南安に戻りました。

弟、洪承畯は南安で母の面倒を見ましたが、その翌年に母は他界してしまいました。その後、彼は洪承疇からの要請にも関わらず、官職に就くことを断り続けました。そして、読書人として隠居生活を続けています。彼は南安で書家としての名を挙げています。文化人としての生き方を選んだということでしょう。

洪承疇は、明清王朝の政界で苦労を重ねる一生を送りますが、弟の洪承畯はそれとは異なった生き方を選びました。故郷の南安で親の面倒をみて、孝行を尽くし、政治とは一線を画す。
それは、兄が全く両親の面倒を見れない状況にあることを知り、自分がその役目を引き受けようということだったのでしょう。しかし、両親が共に他界した後、彼は立身出世のため兄を頼ることはしませんでした。
とても対照的な生きかたをしている2人ですが、それぞれに歴史に足跡を残しています。優秀な兄弟だったのでしょう。

ドルゴンの死

この北京にいた5年間は、僕は洪承疇にとっては小休止の時期であったのだろうと考えています。陝西における農民反乱軍との戦いからこちら、洪承疇は常に戦場の最前線に立ち続けています。北京での名誉職であれば、それは彼にとっては緊張を強いられることのない平和な仕事であったでしょう。

しかし、順治7年ドルゴンは亡くなってしまいます。彼が皇帝となることを選ばずに、摂政という立場で清朝を率いたことには様々な政治的が理由がありますが、彼はそもそも身体が弱かったと言う説もあります。ホンタイジもそうでしたが、このドルゴンも戦場における無理が祟って、若くして亡くなっているのだと考えています。

順治帝は、これまでの清朝のリーダーとは全く異なった育ち方をしています。彼は、戦場に立ったことはなかったと思われます。何しろ、5歳の時に皇帝となり、その年に瀋陽から北京に居を移しています。この時点で、中国北方の反乱はほぼ平定され、清朝の統治に服していないのは、南部のいくつかの地域のみになっています。

順治帝は、ドルゴン亡き後、親政を始めていくわけですが、この皇帝がどの様な考え方を持っていたのかは詳しく分かりません。印象として思うのは、清朝初期のリーダーは、積極派と慎重派が交互に現れることで、成長のバランスをとっている様に見えるということです。
ヌルハチは徹頭徹尾、戦争を先頭に立って指導する積極派のリーダーでした。ホンタイジは、どちらかというと慎重派で、最後まで北京を直接攻めるという判断をしませんでした。
ドルゴンは、状況の急変というタイミングではありますが、中原に駒を進め明朝に取って代わり中国の征服王朝となるきっかけをつくります。積極的な政策が目立ちます。
順治帝の次の康熙帝は、北方のジュンガル部、台湾の鄭氏政権を崩壊させるという、とても大きな政治的功績を残しています。

この康熙帝の積極策を展開する前段階として、順治帝は内部に力を蓄える抑制的な政策をとっていたのだろうと想像しています。

実質的には、この時の朝廷の指導は、順治帝の母である孝莊太后が行なっているという見方もあります。孝莊太后はホンタイジの妃であり、順治帝の母、後には康熙帝の祖母になり、清朝初期の3代の皇帝に少なからず影響力を持っていたと言われています。ドルゴンとの関係においては、ドルゴンの妻になったのではないかという説が唱えられるほどです。
中国のテレビドラマには、この孝莊太后を主人公にしたものもあります。康熙帝国のドラマでも終始康熙帝を後ろから支える、信頼すべき祖母という描かれ方をしていました。

順治10年、束の間の休息は終わりを告げました。中国南部に残り火の様に残っていた南明の勢力が、第3代南明皇帝永暦帝として名乗りをあげたのです。
順治帝はこの事態に対し、洪承疇に改めて征南軍を率いる様命じました。洪承疇は、老体に鞭打って軍の指揮にあたることになります。

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